今年の「5.16」と「5.18」

KARA復帰の関係でスルーしていた、今年の5.16と5.18。遅れ馳せながらちょっと振り返っておきます。

今年で50年を迎えた「5.16軍事クーデタ」については、金鍾泌元首相のインタビューをメインにして、多くの記事を目にしました。

全部をクリップしていられないので、その中から差し当たりこちらなどをクリップしておきましょう。

記事入力 : 2011/05/15 11:15:59
5・16:クーデターを計画した金鍾泌元首相に聞く
【特集】5・16軍事クーデター50年


金鍾泌元首相/写真=李徳熏(イ・ドクフン)記者

「韓国戦争が起こる前までは朴正煕少将を共産主義者と疑っていた」
5・16軍事クーデター基本計画は金元首相…エジプト・トルコの革命を手本に

 1961年の「5・16軍事クーデター(以下5・16)」から、今年で50年の節目を迎える。漢江の人道橋で最初の銃声が響いてから半世紀。功罪に関する議論はさておき、5・16は韓国現代史に大きな変化をもたらした。5・16を計画し、実行した人物は、金鍾泌キム・ジョンピル)元首相だった。金元首相は今月8日、ソウル市内の自宅で本紙のインタビューに応じ、当時のことを振り返り詳細に語った。

 金元首相は、インタビューで「5・16に積極的に加担した陸士第8期出身者をはじめ、革命軍の中核となった将校たちに朴正煕(パク・チョンヒ)少将(当時)を“革命の指導者”として紹介したのは、クーデターのわずか40日前の1961年4月7日だった」と語った。ソウルの忠武路にある5階建てのビルの屋上に集まった29人に対し、朴少将を紹介すると、将校たちは声を上げて喜んだという。

 金元首相は「(当時、5・16作戦を計画した際)ソウルをはじめとする中央は私が担当し、その外郭は朴正煕少将が担当することになった」と語った。金元首相は「中心的な役割を果たしたのは朴少将で、私は支援を行った」と述べつつも、当時2人が革命勢力の招集、加担者との接触などで役割分担していたことを明らかにした。金元首相は「5・16の全体的なマスタープラン(基本計画)は、全て私一人で考えた。そうするしかなかった」と語った。

 金元首相は「当時、ナセルがナギブと引き起こしたエジプト革命(1952年)を詳しく調べた。また、トルコのケマル・パシャが青年将校たちと起こした革命(1923年)も参考にした」と語り、これら二つの革命が5・16の「教科書」だったことを明らかにした。

 金元首相によると、当時は米国のCIA(中央情報局)も張勉(チャン・ミョン)政権の混乱ぶりを否定的に見ていたが、CIAが接触していた人物は朴正煕少将ではなく、朴炳権(パク・ピョングォン)将軍(元国防長官)=1920−2005=と、張都暎(チャン・ドヨン)将軍(元最高会議議長)だったという。金元首相は「当時、ソウルには“クレープ大佐”という仮名でCIA幹部が派遣され、CIAは族青(朝鮮民族青年団)系の指導者だった朴炳権将軍と手を組み、(張勉政権を)覆そうと動いていた」と語った。

 金元首相は、6・25戦争(韓国戦争)が起こるまでは、自分も朴正煕少将が思想的に左翼ではないかと疑っていたと打ち明けた。金元首相は「6・25戦争が起こると、朴少領(少佐に相当)=当時=が共産主義者なら漢江を渡らず、そうでなければ漢江を渡るだろうと考えた。漢江を越え、水原に後退した陸軍本部で朴正煕少領に会った瞬間“共産主義者ではなかった”と安心した。その時、転がっていたヘルメットを拾い、私が手書きで少領の階級章を描いて、朴少領にかぶせた」と語った。このエピソードは、その後20年近く続いた2人の関係を象徴的に物語っている。

キム・グァンイル論説委員

http://www.chosunonline.com/news/20110515000015

記事入力 : 2011/05/16 15:41:00
5・16:朴正煕政権に対する評価

 朴正熙(パク・チョンヒ)政権に対する評価は、年代ごとに大きな違いがあることが分かった。

 朴政権が残した遺産の中で「肯定的なもの」については「経済成長」(41.2%)、「セマウル精神」(39.2%)、「政治面での強いリーダーシップ」(9.1%)、「自主国防」(5.8%)という回答が挙げられた。年代別では、20代は「経済成長」(55.7%)が「セマウル精神」(19.5%)を大きく上回り、30代から50代はこれら二つの回答がほぼ同じだったが、60代以上では逆に「セマウル精神」(53.7%)が「経済成長」(30.2%)を大きく上回った。

 朴政権の否定的な遺産については「権威主義文化」(31.8%)、「大企業中心の経済成長」(24.3%)、「人権侵害」(22.8%)、「対決的南北関係」(6.1%)の順で、否定的遺産に対する評価も年代ごとに大きな差が出る結果となった。「権威主義文化」という回答は30代(39.3%)と40代(37.6%)で特に多く、「大企業中心の経済成長」は20代(32.9%)が最も多かった。「人権侵害」はどの年齢層でも20%前後でほぼ同じだった。

 韓国政党学会の研究チームは「朴政権が残した肯定的、あるいは否定的な遺産に対する評価は、年代ごとに経験の差が大きく影響している」と分析した。慶南大学のキム・ヨンボク教授は「肯定的な遺産について、若い世代の多くは“経済成長”のような目に見える実質的な変化を重視している一方で、年齢の高い世代では、“勤勉・自主・協働”に基づく“やればできる”という自信を植え付けた精神面に多くの関心を示している」と述べた。

 一方で朴政権が残した否定的な遺産として“権威主義文化”が最も多く指摘されていることについて、キム教授は「1987年以降、民主化はすでに定着しているが、それでも30代から40代を中心に、今も韓国社会に権威主義文化が根強く残っていると考える傾向が強いようだ」と解釈した。

洪永林(ホン・ヨンリム)記者

http://www.chosunonline.com/news/20110516000083

いっぽう、31年目を迎えた「5.18」。李明博政権の「おざなりな扱い」はもはやおなじみですが、かといって社会的に忘却の彼方へと追いやられるには、やはりまだまだ「近しいこと」であるようです。

ふだん、何もない日に行くと閑散としている光州郊外の国立5.18民主墓地ですが、この季節だけはさすがに異なる姿を見せます。

記事入力 : 2011/05/18 13:33:31
光州事件:「より成熟した民主主義のために努力を」

李大統領が記念の辞

 李明博(イ・ミョンバク)大統領は、金滉植(キム・ファンシク)首相が代読した5・18光州民主化運動(1980年5月18日に光州で起こった民主化要求、光州事件)31周年記念式典のあいさつで「31年前、光州は多くの犠牲により民主化の希望をこの地に植え付けた。自由と民主に向けたあの日の叫びは6月民主抗争につながり、韓国の民主主義を回復させた。民主化の過程で、民主主義の基礎をしっかりと固めたが、よりいっそう成熟した民主主義のために引き続き努力していかなければならない」と語った。

 記念式典は18日午前10時、光州市北区の国立5・18民主墓地で行われ、金首相をはじめ政府関係者や有功者、遺族、関連団体のメンバー、市民ら2500人余りが出席した。

チョ・ベッコン記者

http://www.chosunonline.com/news/20110518000056

記事入力 : 2011/05/16 14:27:31
国立5・18民主墓地を訪れた参拝客たち

 5・18光州民主化運動(1980年5月18日に光州で起こった民主化要求、光州事件)31周年を前にした15日午前、国立5・18民主墓地には多くの遺族や参拝客たちが訪れた。






http://www.chosunonline.com/news/20110516000064

記事入力 : 2011/05/18 09:40:50
よみがえる5・18光州民主化運動の記憶

 17日午前、国立5・18民主墓地(光州市北区)では、墓碑前に遺族が座り込み、ハンカチで涙をぬぐっていた。5・18民主化運動(1980年5月18日に光州で起こった民主化要求、光州事件)記念日を翌日に控えたこの日、5・18民主墓地で追悼祭が開催されるなど、光州市内各所でさまざまなイベントが行われた。

キム・ヨングン記者

http://www.chosunonline.com/news/20110518000027