たぶん読んでいる人も多いと思うのですが、今回のこのコラム、私としてはクリップせずにはおれませんです。
しかしながら、日本人の多数派が、グローバル社会という難敵に直面せねばならない近未来を、私は信じない。
というよりも、そういう事態を招来せしめないために、われわれは、いまのうちからアタマを絞ってかからないといけないはずなのだ。
別の言い方をするなら、自ら望んで、あえてグローバル社会の到来を促進しようと考えているのは、社会がグローバル化することによって利益を得るごく一部の日本人だけなのだ。
そういう人々の策略に乗ってはならない。
「グローバル化か死か」と銃を突き付けられたとしたら、私はそこで「引き金を引け!」と言わねばなりません。
何故なら、私はもうこれ以上馬鹿になりたくはないからです。私が外国語を使うと、能力的にはミジンコ並みになりますので。
でも、ほとんどの日本人は、英語でしゃべると能力が半減する。
このことを忘れてはならない。
私自身のことを言えば、私は英語を使うと、表現力が幼稚になるだけではなくて、精神まで退行する。
ということは、私は無能になる。
もしかして、彼らの狙いは、ほとんどの日本人を「無能」にすることなんではないだろうか。
英語を公用語にすることで、日本国内の多くの日本人に「無能」の烙印を押すことが可能になる。
グローバル化したい人を引き留めるつもりはありませんし、やりたいようにやってもらったらいいと思っています。
ただし、その分、私もやりたいようにやらせてもらいたいと思っています。
そしてそれには、それなりの意味もあると思っています。
(グローバルな人ができないこと・やらないことを、私が引き受けて差し上げます。
まあ、お互い様ですから恩着せがましく言うことではありませんね。)
それを、「あっち側」に合わせるように強制されるなんてまっぴらです。
いやでもホント、私が生きていくための最低限の条件を守るためには、命懸けで戦う必要があるのかもしれません。
だってそれって、私だけのことではなく、私がこの世を去った後の未来のことでもありますから。