【釜山の風景】꽃마을(コッマウル/花の村)と九徳共同墓地
さて、釜山編です。その当日の備忘録はこちらです。今回はこの記事の場所のことを改めて。
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スタートは地下鉄の西大新駅。ここからマウルバスに乗れるはずなんですけど、バス停の場所がわからなくて、気が付けば隣の釜慶高等学校のバス停まで来てました。ともかく、「西区1」のマウルバスで九徳運動場をかすめ、終点の「꽃마을(コッマウル/花の村)」まで登ります。山登りする気でないのなら、徒歩は避けた方がいいでしょう。
この、山の上の集落が「꽃마을(花の村)」と呼ばれる場所です。こういうところがあることは聞いていましたが、個人的には今回初めて来ました。
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意外と開けていて、様々な飲食店や施設が周囲も含めて広がっています。
美味しそうな店が営業中なのも何軒か見かけたんですけど、まだお昼にはちょっと早かったので、まずは用事を片付けてしまうとします。
入り口は、こちらですね。
で、まさにここで、出会ったんですよ。わんことにゃんこに。
で、両者の誘惑を振り切った先に広がるのが、こんな光景です。
これ、村の背後に広がっている「九徳共同墓地」と呼ばれるものです。ご覧の通り、朽ちかけた墓碑と土饅頭とが点在して広がっている場所です。
この共同墓地のことを知ったのは、同じ釜山の門峴共同墓地のことを記事にした時でした。墓地の来歴などについて少し調べていたら出てきた釜山日報の記事が、朝鮮戦争の避難民が共同墓地のそばに集まって築いた村の例として、有名な峨眉洞や門峴洞よりも先に、西大新洞のこの村のことを取り上げていたのでした。
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これらの墓地の来歴について、詳しいことはよくわかりません。ただ、この共同墓地の形態は、朝鮮総督府主導で導入されたもののはずですから、植民地期より以前に遡ることはなかろうと思います。
ともあれ、朝鮮戦争で釜山に避難民が集まった頃にはすでに、これらの墓地はあったわけですから、このあたりの住環境が「墓が先、家が後」で形成されたという前後関係は確実です。「墓地の隣でも、あるいは墓地に食い込んででも、その場所で生きていかざるを得なかった」という歴史がそこにはあり、これらの朽ちかけたお墓によって、その歴史が目に見える形で留められている、というわけです。
今回は、この九徳共同墓地を皮切りに、この周辺の山中にある共同墓地をいくつか、見ていきたいと思います。