「運命の人」についての予定説と資本主義の精神
いや、これのことなんですけど。
blue-black-osaka.hatenablog.com
もともとこれは私のオリジナルではなくて、さる方の所説を私なりに解読したものだったのですが、お見せしたところ、大変な怒りとともに叱責されてしまいました。
「この、コンサルかぶれの新自由主義者めが!!!!」
「やり直し!」とのことです。えー。マジか。めんどくさ。
さて、もう一度よくよく聞いたところ、「運命の人」には2種類あると言います。
「これが、私の運命の人…⁉」
「これが、私の運命の人…⁉」
同じ字面でもエラい違いで、運命の人によって救われるのは一方だけなんだそうです。
しかも、困ったことに、誰が運命の人によって救われ、誰が救われないかは、あらかじめ決定されており、自分自身の努力ではどうにもならないというのです。そして、自分がどっちなのかは決して知ることはできない、とも。救われる方に選ばれてなかったら地獄ですよ地獄。なんでやねん。
そこで人間、考えるわけですよ。誰が救われるかはわからんけど、救われるからにはきっと、救われるにふさわしい人間であるはずだ、と。
そこで人々は、欲望のままに食っちゃ寝してブクブク太ることを自らに禁じ、持てる力のすべてを自分磨きとセックスアピールに集中させたのです。禁欲的研鑽とでも呼べばいいのでしょうか。
この禁欲が生んだのが、「美貌の肯定」であり、「美貌を生み出す産業の利潤の肯定」である。また、こうした利潤の肯定がコスメ業界(やファッション業界やその他諸々)の資本主義的発展につながったのである。
…ということらしいですよ。知らんけど。
まあもちろん、「あほらし、そんな禁欲主義のサバイバル競争にはついていけん」という人もいるわけですが、そんな人たちはどうやら免罪符を買いに教会へと集まっていたらしいです。
最近のだと、例えばこんなやつです。
となると、あとは…わかりますね、宗教戦争です。ま、この場合、戦争を仕掛けるのはもっぱら禁欲主義でカリカリしたプロテスタントの側らしいという話ですけど。自分たちと違って楽してるように見える連中が憎いみたいです。
あのー、ですね?壊すことに快感を覚えるようになったら人間、終わりやと思いますよ…。