朝鮮日報・鮮于鉦特派員の目

朝鮮日報』からついでにもう一本、鮮于鉦特派員のコラムをクリップしておく。
朝鮮日報知日派の系譜を継ぐこの一文をどう読むか。そこではおそらく、読み手側の知性も問われると思われる。

記事入力 : 2009/05/12 12:05:39
【コラム】祝福の歴史と怨念の歴史

 太平洋から東京湾に入るところにある神奈川県の久里浜海岸は、1853年にペリー提督率いる米軍艦隊が停泊したことで有名だ。当時、日本が「黒船」と呼んで恐れたペリー艦隊の艦艇は4隻だった。ペリー艦隊が上陸して以降、日本が強要された不平等条約や、これを受けて日本国内で巻き起こった骨肉の争いは、開国直後の中国や韓国にも引けを取らないほどだった。

 その発端となったペリーゆかりの久里浜に、ペリーの上陸を記念する「ペリー公園」がある。公園内には「北米合衆国水師提督伯理(ペリー)上陸記念碑」と「じょうきせんの碑」があるが、そこに刻まれた文章の意味を知って、妙な気分を味わったものだ。

 「じょうきせんの碑」には、「太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん=緑茶の一種) たった四杯(しはい)で夜も眠れず」という当時の狂歌が刻まれている。「蒸気船」と発音が同じ「上喜撰」を掛けたこの狂歌は、大きな歴史のうねりに直面した人々の混乱ぶりを皮肉ったものだ。この碑文を刻んだのは、江戸幕府の高官、間部詮勝だった。

 公園の中央にある「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」は、ペリーの来航から48年後の1901年に建立され、当時盛大な除幕式が行われた。この碑文を刻んだのは、明治政府の最高権力者、伊藤博文だった。公園内にある二つの記念碑は、半世紀の間に恐怖感から解放され、自信を持った日本人の世界観を表している。

 日本のこうした自信は、久里浜と同じ横須賀市の海岸にある三笠公園で、さらにはっきりと表現されている。1905年、日露戦争で日本を勝利に導いた旗艦「三笠」をそのまま展示した公園だ。案内板には「この戦争での勝利により、日本は独立と安全を守り、国際的な地位を高め、列強の抑圧からの自立という希望をもたらした」と書かれてある。

 韓国にとっては「自家撞着(どうちゃく)」にしか思えないことだが、その後約20年間、日本が政治・外交・経済・文化のすべての分野において一時代を築いたことは否定できない。韓国が世界から相手にされない中で植民地へと転落したのも、日露戦争以後に訪れた日本の黄金時代での出来事だった。

 三笠公園から海岸線に沿って北上すると、米海軍第7艦隊の母港である横須賀港がある。ここに同艦隊が駐留することになったのは、太平洋戦争で日本が降伏した直後、占領軍がここに上陸してからのことだ。日本の敗戦に伴う占領の始まりだった。だが、「閉ざされた国」日本を「開かれた国」に変え、経済大国へと導いたその結果は、ペリーの上陸と同じだった。

 「日本は歴史をどう受け止めているのか」という疑問は、さらに海岸線を北上したところにある横浜の風景を見れば、完全に解くことができる。横浜は1945年、米軍の空襲によって焼け野原になった後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部GHQ)が置かれたところだ。

 その横浜が今年、開港から150周年を迎えた。来月の記念式典を前に、記念行事が盛んに行われている。「開港」といえば「侵略」を思い浮かべるような暗いイメージはそこにはない。開港によるデメリットを改革によって克服し、対外的な開放をてこにして強国にのし上がった、歴史上の「勝ち組」が演じる爽快なイメージがそこにはあった。

 韓国はどんな気持ちで「開港」を受け止めているのか。6年前に仁川港の開港から120周年を迎えた際、開港記念塔を取り壊した。「苦痛の時代を終わらせる」という名目で、1世紀以上もの間克服できなかった被害者的な歴史認識を表した行動だった。こんな姿勢では、24年後に開港150周年を迎えるときには、開港当時の港をすべてぶち壊すのではないかと予想しない人がどこにいるだろうか。もちろん、こんな気持ちでは、開港を強要した日本に国力で追いつき、開港150周年を祝うことなどできないだろう。

 「祝福の歴史」と「怨念の歴史」は祖先が作った過去ではなく、現代を生きるわれわれが作る現実なのだ。

東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員

http://www.chosunonline.com/news/20090512000042
http://www.chosunonline.com/news/20090512000043