歴史を拓いた李忠成

その時にはさすがに観てられなくてライブでは寝ていましたが、値千金のいいゴールでした。

韓国メディアももちろん大々的に伝えています。

記事入力 : 2011/01/31 12:02:13
アジア杯サッカー:日本のヒーローになった李忠成
韓国代表夢見た在日韓国人4世「イ・チュンソン」が「り・ただなり」に

 日本はアジア・カップ・サッカーで4回目の優勝を果たした。日本は30日の決勝戦で、延長後半4分にさく裂した元在日韓国人李忠成の決勝ゴールによりオーストラリアに1−0で勝った。韓国は3位決定戦でウズベキスタンを3−2で破り、2015年大会の出場権を獲得した。最優秀選手(MVP)には日本のMF本田圭佑が、得点王には5ゴールを決めた具滋哲ク・ジャチョル)が輝いた。韓国人選手がアジア・カップの得点王になったのは趙潤玉(チョ・ユンオク、1960年)、崔淳鎬チェ・スンホ、1980年)、李泰昊(イ・テホ、1988年)、李東国イ・ドングク、2000年)に続き5人目。具滋哲は3アシストで「アシスト王」にもなった。韓国はアジア・サッカー連盟(AFC)が選ぶフェアプレー賞を受賞した。

 アジア・カップ決勝戦の延長後半4分、長友佑都が左から美しいクロスを上げた。ペナルティーボックス右に立っていた李忠成(25)=サンフレッチェ=はそのボールを見た瞬間、何を思ったのだろうか。

 李忠成の足の甲に「忠実に」乗ったボールは、相手ゴールキーパーが反応する暇もなくゴールネットを揺らした。アジア・カップの歴史に残る劇的な決勝ゴールだった。日本の日刊スポーツは「李忠成が豪快な左足ボレーで値千金の決勝点を奪取」と報じた。

 日本名「り・ただなり」、韓国名「李忠成イ・チュンソン)」は在日韓国人4世として東京で生まれた。小学校のころからサッカーをしていた彼の夢は、韓国代表になり太極マークが付いたユニホームを着ることだった。JリーグFC東京U18(18歳以下)に加入、04年に韓国U19代表(19歳以下)候補になった。

 日本の中学・高校で差別を受けながらサッカーをしていた李忠成は、普段から「僕の夢は韓国代表になること」と言っていた。ところが、韓国では別の差別が待っていた。チームメートたちは韓国語が拙い李忠成を、同じ韓国人として認めなかった。

 傷ついた李忠成は05年、日本に戻った。親族らの反対を押し切り、06年に日本国籍取得を申請、07年2月に「日本人」になった。08年の北京五輪時はU22(22歳以下)日本代表チームに招集された。

 アジア・カップを前にA代表チームに抜てきされたのには運もあった。アジア・カップ直前の昨年12月、FW森本貴幸が膝を負傷、脱落したのだ。アルベルト・ザッケローニ監督はJリーグで大活躍していた李忠成A代表に選抜した。

 予選第1戦のヨルダン戦で交代出場によりAマッチデビューした李忠成は、韓国との準決勝戦でも交代出場する可能性があったが、結局監督から指示がなかった。李忠成にとってAマッチ2戦目となる決勝のオーストラリア戦で初ゴールを決め、空に矢を放つパフォーマンスを披露した。

 李忠成のパフォーマンスは、韓国でも活動していた在日韓国人歌手ICONIQ(アイコニック、韓国のアイドルグループSugar元メンバー・アユミ)のためだという見方もある。日本では、李忠成とICONIQが08年から交際しているとの報道がある。

 李忠成は「日本国籍を取得したことに対し、反対もされたし、僕も傷ついた。しかし、ずっと僕がヒーローになると言い聞かせていた。今回本当にそうなった」と語った。李忠成はユニホームに「LEE」という名を付けてプレーしている。

キム・ドンソク記者

http://www.chosunonline.com/news/20110131000038

李忠成がヒーローになったことはもちろん素晴らしいのですが、日本代表に新たな歴史が拓かれたということについても意義深いものがあると思われます。いずれこうしたことが当たり前になるにしても、誰かがどこかで第一歩を踏み出してことは始まるわけで、その現場を(録画ですけど)目の当たりにしたわけです。

李忠成選手個人には、これを、さらにサッカー選手として飛躍するためのきっかけとしてもらいたいものです。例えば、朴智星の2002年W杯ポルトガル戦のゴールみたいに。