日本遺族会の慰霊事業など、今年は中断。

まあそもそも、事実上、国外に出れませんからね。「来年行けたらええやん」と軽々しく言える話ではないのですが、やむを得ませんよねえ。

来年には海外渡航できるようになってたらええんやけどなあ。

遺族会の慰霊事業が中断 コロナで渡航困難―高齢者多く「早期再開を」
2020年08月05日14時34分

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ロシア極東ハバロフスクにある日本人死亡者慰霊碑で2019年8月に行われた追悼式(日本遺族会提供)

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病院に車椅子を寄贈する慰霊友好親善事業の参加者(中央右)=2017年11月、ソロモン諸島ガダルカナル島日本遺族会提供)

 第2次世界大戦の戦没者の子どもが戦地で慰霊や交流を行う日本遺族会(東京都千代田区)主催の派遣事業が中断していることが5日、同会への取材で分かった。新型コロナウイルスの影響で渡航が困難なためで、同様の理由で国の遺骨収集事業なども相次いで中止や延期が決まっている。

 今年は戦後75年の節目に当たるが、新型コロナが慰霊事業に影を落としている。同会は「高齢の遺児にとって現地で慰霊できるかは時間との闘い」とし、早期再開に期待を寄せている。

 日本遺族会によると、中断しているのは1991年度に始まった「慰霊友好親善事業」。国から補助を受け、戦没者の遺児が激戦地となった太平洋のパラオ諸島マリアナ諸島、フィリピンなどを訪れ、父親らの慰霊や住民との交流を行う。今年度は8月下旬~来年3月末に計19回の派遣が予定され、参加者900人を募集していた。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/632808/

熊本豪雨から1カ月目の追悼

豪雨災害からひと月が過ぎ、復旧はまだまだでしょうけど、各地で追悼が行われたようです。

球磨川見つめ鎮魂の祈り 熊本豪雨1カ月、被災地で追悼
2020/8/4 23:00 (JST)8/5 14:17 (JST)
©株式会社熊本日日新聞社

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母と伯母が濁流にのまれて犠牲となり、実家跡で線香を上げ、球磨川を見つめる家族ら=4日正午すぎ、球磨村のJR球泉洞駅前(高見伸)

 死者65人、行方不明者2人-。熊本県南部を中心に甚大な被害をもたらした豪雨災害は4日、発生から1カ月を迎え、被災地は犠牲者への祈りに包まれた。

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 球磨川の氾濫で25人が亡くなった球磨村では、午前9時にサイレンが鳴り響いた。松谷浩一村長は防災無線で「安心して暮らせるまでには時間を要するだろうが、日常生活が早く取り戻せるよう全力で取り組む」と決意を述べた。

 同村一勝地のJR球泉洞駅前では、犠牲となった川口豊美さん(73)と牛嶋滿子さん(78)の家族が、駅前にあった家の跡地で線香を上げ、球磨川に向かって手を合わせた。

 20人が犠牲となった人吉市も同時刻、下城本町の市役所仮本庁舎で市災害対策本部の会議を開催。会議冒頭、市幹部や県職員ら出席者約30人が起立し、サイレンが鳴る約30秒間、目をつむり頭を下げた。松岡隼人市長は「私たちそれぞれが大切なものを失った。あらためて亡くなった方々に哀悼の意を表したい」と述べた。

 八代市は正午、同市坂本町の住民の避難所となっている市総合体育館トヨオカ地建アリーナ、千丁コミュニティセンターなどで黙とうを呼び掛けた。

 同町では4人が亡くなり、1人が行方不明。市鏡支所では職員らが館内放送に合わせ1分間の祈りをささげた。中村博生市長は「被災者、特に家族を亡くした方にとって、つらい1カ月だったと思う」と気遣った。

 土砂崩れで3人が犠牲となった津奈木町では正午、防災無線でサイレンを鳴らし、住民や町職員が1分間の黙とう。山田豊隆町長は犠牲者への哀悼と全国からの支援への感謝の意を示し、「住民が安心で安全な生活を取り戻せるように全力を尽くす」と話した。(米本充宏、吉田紳一、益田大也、山本文子)

https://this.kiji.is/663383170435171425?c=92619697908483575

被災地包む追悼の祈り 豪雨災害発生から1カ月
2020/8/5 6:00
西日本新聞 熊本版 井崎 圭 長松院 ゆりか 壇 知里 綾部 庸介 梅沢 平 中村 太郎 松本 紗菜子 和田 剛

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住民らに被災者支援の内容などを説明する神照寺の岩崎哲秀さん(左から2人目)

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さくらドームで黙とうするボランティアや職員ら

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被災当時からほとんど手つかずの八代市坂本町荒瀬の集落

 熊本県内で65人が亡くなり、2人が行方不明となっている豪雨災害は4日、発生から1カ月を迎えた。倒壊した建物などがなお残る被災地は追悼の祈りに包まれ、被災自治体は新たな部署を設けるなど復旧、復興への決意を新たにした。

 20人が犠牲になり、約630人が避難所生活を続ける人吉市では、市が午前9時に防災無線でサイレンを鳴らし追悼を呼び掛けた。浸水被害が広がった同市下青井町の別府ひろえさん(81)は「うちの近くで3人が亡くなった。こんなひどか災害は初めて。悲しいことです」と悲痛な面持ちで語った。入所者14人が犠牲となった球磨村特別養護老人ホーム「千寿園」でも、ゆかりのある人たちが次々と献花に訪れ、静かに手を合わせていた。

 被災地では泥で汚れた家屋の清掃やがれきの撤去などが急ピッチで進む。しかし八代市坂本町葉木の集落では高齢者世帯など手つかずの家も多く、自衛隊員が重機や車両で片付けに当たった。男性自衛官は「少しでも役に立ちたい」。1カ月ぶりに自宅に入った蓑田正晴さん(70)は「やっと子どもたちの思い出の品を取り出せた」とかすかに笑顔を見せた。ただ「もうここには住めない」。

 人吉市中心部のスポーツ店に市民ボランティアが開設した支援物資の供給拠点には、扇風機や紙おむつ、ペットフードなどが山積みに。近くで美容院を経営する川嶋久美子さん(42)は「車が浸水して廃車になったので近所に拠点があるのは助かります」。それでも人手は不足しており「店の再開はいつになるのか」と不安を隠さなかった。

 球磨村のさくらドームに集まったボランティアは持ち場に向かう前に黙とう。今回が3回目の参加になるという製造業労働組合役員の森祐樹さん(33)は「地区によって復旧の程度は違うが、状況は少しずついい方向に変わってきた」。

 被災直後、運動場に付近住民の無事を知らせる「120メイヒナン」を大きく記した球磨村の神瀬保育園に隣接する神照寺では、有志らが汗を流した。昼食休憩の際には、熊本地震で被災者支援の経験がある岩崎哲秀住職が、被災住民に支援策が書かれたチラシを示しながら「早めに申請をしておいた方がいい」などとアドバイスしていた。

 県や市町村は被災者支援に本腰を入れる。県議会は4日、臨時会を開き、豪雨災害と新型コロナウイルスへの対策費計441億9300万円を追加する本年度一般会計補正予算案など7件を可決した。冒頭、県議らが豪雨の犠牲者に黙とうをささげた。県災害対策本部会議で蒲島郁夫知事は「畳や家具、がれきなどを一日も早く撤去し、生活再建を後押しする」と述べた。

 人吉市は同日、松岡市長を本部長とする災害復興本部を発足。メンバー17人はいずれも兼務で、被災者や産業支援、インフラ強靱(きょうじん)化などの課題に部や課を超えて取り組むという。

 八代市は総務企画部内に復興推進課を新設。被害の大きかった同市坂本町を管轄する坂本支所には職員1人を増員した。復興推進課は5人態勢で復興計画を策定する。辞令交付式で中村博生市長は「地域を守るための課になる。住民の思いを調整する難しい業務で丁寧に取り組んでほしい」と訓示。宮川武晴課長は「国や県など関係機関と連携しながら一丸となって取り組みたい」と話した。

 (井崎圭、長松院ゆりか、壇知里、綾部庸介、梅沢平、中村太郎、松本紗菜子、和田剛)

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/632624/

ある殉職消防官の死と、公的な弔いの話:全羅南道の場合

先日の大雨で災害救助活動中に流されて死亡した消防官の永訣式(告別式)が公葬(全羅南道葬)として行なわれた、というニュースです。他にも同じような例はたくさんあるかもしれませんが、私が知った限りでは、これが2例目です。

www.youtube.com
imnews.imbc.com

慶尚南道庁葬については、先日記事にしています。

blue-black-osaka.hatenablog.com

いずれもたいへん痛ましい、公務遂行中の殉職事故ですが、今後こうした場合には、自治体レベルでの公葬の後、この人物のように大田顕忠院の消防官墓域(もしくはその他の殉職公務員墓域)か、各地方の護国院、あるいは各々の自治体の公設墓地内の有功者墓域に葬られる、という流れが確立していくのかもしれません。

blue-black-osaka.hatenablog.com
blue-black-osaka.hatenablog.com

구조 도중 순직한 김국환 소방관, 2일 전라남도장(葬) 엄수
뉴스1
입력 2020-08-01 19:22 수정 2020-08-01 19:22

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순직 소방관 김국환 소방교의 영정.(전남소방본부 제공)/뉴스1 © News1

전남 구례군 지리산 피아골 계곡에서 물에 빠진 피서객을 구조하다가 28세를 일기로 순직한 김국환 소방교의 영결식이 전라남도장(葬)으로 엄수된다.

소방청은 전남 순천소방서 소속 고(故) 김 소방교의 영결식이 오는 2일 오전 10시 전남 순천 팔마실내체육관에서 전라남도장으로 거행된다고 1일 밝혔다.

소방청은 고인에 대한 1계급 특진(소방교→소방장)을 결정했다. 장례위원장을 맡은 김영록 전남도지사가 추서할 예정이다.

영결식은 유가족과 내·외빈 등 500여명이 참석한 가운데 엄숙하게 진행된다. 국기에 대한 경례, 묵념, 고인의 약력 보고, 1계급 특진 추서, 훈장 추서, 조사, 조전, 동료 고별사, 헌화·분향, 조총발사 등 순으로 약 1시간 동안 거행된다.

https://www.donga.com/news/Society/article/all/20200801/102257308/1

東彼杵郡川棚町の戦争遺構群

昨日の小値賀町の記事の関連で読んだ長崎新聞の記事。

長崎にたびたび行く機会があった時から、JR大村線沿いに戦争遺構があるのは知っていましたし、小串郷駅近くの「特攻殉国の碑」なんかはすごく気になっていたのですが、あの当時はそういうのを見て回る暇がありませんでした。でもって今は行くこと自体が簡単にはできない状況です。

大村から松浦にかけてのあたり、一度じっくり時間をかけて回ってみたいなあ…。

「川棚の戦争遺構」現状と課題 進む老朽化、保存に濃淡
2020/5/24 13:30 (JST)
©株式会社長崎新聞社

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独特の景観で人気を集めている片島魚雷発射試験場跡=川棚町三越

 戦前から戦時中にかけて多くの軍事施設が置かれた長崎県東彼川棚町。町内各地に戦時遺構が点在しているが、保存に向けた取り組みには濃淡が見られる。戦後75年で記憶の風化や遺構の老朽化が進む中、遺構活用の現状と課題を探った。

SNS

 三越郷の海沿いにある片島魚雷発射試験場跡は、約100年前の1918(大正7)年に開設された軍事施設の遺構。魚雷の性能検査を担った。

 戦後は長らく放置されていたが近年、自然と廃虚が織りなす独特の景観で、会員制交流サイト(SNS)を中心に人気を集めている。今年2月には長崎原爆をテーマにした映画のロケ地にも使われた。

 町観光協会の一ノ瀬充博事務局長は「戦時遺構はいわば『負の遺産』でPRが難しいが、試験場跡は見た目のインパクトが大きく、徐々にツアー商品にも組み入れてもらえるようになった」と語る。

 町は2014年から国有地だった試験場跡を購入し、公園整備に着手した。遺構の歴史や役割を解説するボランティアガイドを育成し、修学旅行生の受け入れもスタート。本年度には公衆トイレを設営し、ハード面の充実を図る。

 一方で築100年以上の建造物には劣化も見られる。特に、海に伸びた突堤に立つ魚雷発射台は専門家を交えた調査で、倒壊の危険性が指摘され、4月下旬から見学者の立ち入りを禁じている。

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川棚町内の軍事遺構

■危険性

 すでに消えてしまった遺構もある。戦時中、百津郷一帯に広がっていた川棚海軍工廠(こうしょう)跡の「赤れんがの倉庫」は老朽化が激しく、修復や移設は不可能として、町が今年1月に取り壊した。

 同工廠は1942(昭和17)年10月に、佐世保海軍工廠の分工場として開庁。翌年に独立し、真珠湾攻撃でも使用された「九一式航空魚雷」を主に製造した。

 倉庫は工廠跡に現存する数少ない建物だったが、屋根がなく、外壁だけ雨ざらしで立っていた。住宅地の中にあり、数年前から近隣住民が倒壊の危険性を訴えていた。

 町によると、2018年12月には町議会で解体が決まっていたが、戦時遺構ボランティアガイドの古川恵美さん(45)は「全く知らされていなかった」とこぼす。「町内の戦時遺構は川棚に限らず、日本の歴史上にも重要。遺構が観光資源になるかだけではなく、文化財保存という視点も考慮してほしい」と求める。

 町は解体後のれんがを約30個保管しているが展示や活用の方法は未定だ。

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川棚海軍工廠跡に残る赤れんが倉庫の内部=川棚町百津郷

■活用策

 近くにもう1棟、別の赤れんが倉庫が残る。こちらは屋根があり比較的頑丈。「土地の埋め立てを手伝った『給料』代わりとして終戦後、旧海軍から譲り受けたらしい」。所有者で町民の鍜冶敏枝さん(62)は、亡くなった夫から、そんないきさつを聞いたという。

 3年前に町民有志がイベントを開くなど活用策を探る動きもあったが、住宅地に位置することもあり、進展していない。鍜冶さんは「保存にも、解体にもお金がかかる。町に寄付するのも選択肢の一つだが…」と悩む。

■先細り

 大戦末期、旧日本海軍の水上特攻艇「震洋」の訓練所が置かれた新谷郷では、元隊員の戦死者を祭った「特攻殉国の碑」を地元住民が管理。毎年5月には慰霊祭を開くが、元隊員や遺族の参列者は年々減り、活動の先細りが懸念される。郷総代の寺井理治さん(73)は「つい最近も『親族の名前が慰霊碑に刻まれているかを確かめたい』という人がやってきた。この地で碑を守り、歴史を伝える役割は今後も必要だ」と言葉に力を込める。

 こうした中、地元住民らは、碑の近くに「震洋」の実寸大復元模型を展示しようと、クラウドファンディングで資金を募っている。若い世代に悲惨な特攻作戦の実態を、よりリアルに感じてもらうのが目的だ。

 だが、13日現在で集まったのは目標金額500万円の1割程度。寺井さんは「もう少し関心を持ってもらいたいのだが、民間だけの力では情報発信も難しい」と吐露する。

 資金はクラウドファンディングサイト「Makuake(マクアケ)」で6月29日まで募り、5千円から支援できる。

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特攻艇「震洋」隊員の遺品や書籍が並ぶ資料館で、戦争の歴史を伝える意義を語る寺井さん=川棚町新谷郷

https://this.kiji.is/637134885381145697?c=174761113988793844

記事中にある、解体された「赤れんが倉庫」とは、どうやらこちらのようです。これがもうない、と。

移設されて残っていた奉安殿

長崎県北松浦郡小値賀町というと、五島列島の北の方なんですが、そこで戦前戦中の奉安殿が現存しているのが確認された、というニュース。設置・移設の経緯や戦後の遺され方も含めて興味深いケースだと思います。関係者の理解を得て、調査と保存が進むといいですね。

小値賀「奉安殿」 住民が移設し保存 「壊すの忍びなかったのでは」
2020/7/27 11:15 (JST)7/27 11:44 (JST)updated
©株式会社長崎新聞社

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移設作業の様子を撮影したとみられる写真(前田百合子さん提供)

 北松小値賀町で「奉安殿」とみられる建造物が現存していることが分かった。戦後間もない時期に、当時の設置場所から移設して保存したとみられる。

 元町文化財調査委員会委員長の吉元俊二郎さんは「島民は壊すのが忍びなかったのではないか。それまで天皇を崇拝していたのに、(敗戦したからといって)簡単には切り替えられなかったのだろう」と推測している。

奉安殿 とは
2020/7/20 11:15 (JST)7/27 12:14 (JST)updated
©株式会社長崎新聞社

 戦前の日本で、天皇と皇后の写真(御真影)や、当時の教育理念である教育勅語を安置するため、学校などに設けられた建物。1910年代から全国で建設が始まった。戦後は連合国軍総司令部GHQ)の廃止方針を受け、日本政府は46年、学校からの全面撤去を指示。多くは解体されたが、移設により解体を免れた例も少なくない。

https://this.kiji.is/660305051060733025?c=174761113988793844

 建造物は現在、私有地内にあり、普段は立ち入りできない。この土地の所有者で「丸ま旅館」(笛吹郷)のおかみ、前田百合子さん(66)は「嫁いできた約40年前、亡くなった夫から『料亭(平和荘)の経営者だった祖父が移設した』と聞いたことがある。関心がある人がいれば、私の方で案内したい」と語った。

 前田さんの夫の祖父が残した写真には、大人が数十人がかりで白っぽい大きな建造物を運んでいる様子を撮影したものが複数ある。その中の1枚には「昭和弐十一年 小値賀校奉安殿ヲ平和園ヘ移ス」と説明文が書かれており、移設作業には多くの地元住民が関わったとみられる。

 戦前の天皇は神格化され、学校の生徒は奉安殿の前を通る際には服装を正し、最敬礼するように定められていた。笛吹郷の山口安美さん(91)は当時を振り返り「(奉安殿は)鉄の柵で囲ってあり、触れられなかった」。前方郷の崎山信好さん(83)は「登校すると最敬礼していた。当時は中に何が入っているか知らなかったし(天皇は)神様と同じと思っていたので、あまり近づかなかった」と話した。

 町教委の文化財担当者は、戦前の天皇制下の様子を伝える戦争遺跡や、近代の小値賀におけるコンクリート製建築物としての価値を評価。「今後も所有者の理解を得ながら、保存に向け調査を続けたい」としている。

https://this.kiji.is/660304853792834657?c=174761113988793844

戦後に撤去されたはずの「奉安殿」 長崎・小値賀町で現存か
2020/7/27 12:00 (JST)7/27 12:13 (JST)updated
©株式会社長崎新聞社

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雑木林の中にある「奉安殿」とみられる建造物。正面の上部に見える円形の部分には菊の御紋が取り付けてあったとみられる=小値賀町中村郷

 北松小値賀町教委は、同町中村郷の雑木林にあるコンクリート製建造物について、戦前の学校で天皇の「御真影」などを安置していた「奉安殿」である可能性が高いとして調査を進めている。

 当時を知る住民の証言などから、町教委は「奉安殿とみて間違いないのではないか」と分析。「近代史を知るための貴重な史料になる」としている。

 奉安殿の多くは戦後、連合国軍総司令部GHQ)の指令で学校から撤去、解体された。県内で現存が確認されているものには、米海軍佐世保基地司令部として使われている旧日本軍の庁舎脇にある日本庭園の奉安殿がある。県外では文化財に指定されている例もある。

 小値賀で見つかった建造物は高さ約2.7メートル、横幅約2.1メートル、奥行き約2メートル。壁の一部にはひびが入り、正面の金属製の開き扉はさびついて開かないという。

 元々は、現在の町立小値賀小グラウンドの一角に設置されていたとみられている。小値賀尋常高等小学校(後に小値賀町国民学校)があった場所で、雑木林とは約230メートル離れている。

 町教委は6月中旬、元町文化財調査委員会委員長の吉元俊二郎さん(73)=同町笛吹郷=から情報提供を受けて調査に着手。80代から90代の地元住民数人に雑木林の建造物の写真を見せ、かつて通った尋常高等小学校にあった建物と同じだとの証言を得た。建築年は1928年から37年の間と推測している。

 雑木林は、80年ごろまで営業していた料亭「平和荘」の敷地内にある。建造物は「平和神社」の社殿として使われたとみられている。

 戦時下の教育に詳しい日大文理学部の小野雅章教授(教育史)は小値賀の建造物について「奉安殿は多くの場合、神社様式で建てられたが、(写真を見ると)そうではなく特徴的。保存状態もよいようだ」と指摘。「戦争を経験していない世代が国を動かしている今の時代に、こうした施設を保存していくことは戦争の悲惨さを伝えるため重要」と意義を説明した。

https://this.kiji.is/660306994502419553?c=174761113988793844

御真影と学校: 「奉護」の変容

御真影と学校: 「奉護」の変容

戦没者慰霊碑の維持管理から継承をめぐる問題

これ、これまでにも問題になってきましたけど、これからさらに問題になってきます。

こうした碑を建立した世代が徐々にこの世を去り、その限界が近づいてきているからです。時代の当事者でもあった第一世代と、間接的にしか当時を知らない第二世代以降の断絶は避けがたく、そこを乗り越えるのは簡単ではありません。

直接的な人と人と繋がりを離れた時、継承のよすがとなるのは地域の地縁なのですが、今はこれも弱ってきています。軍が主体となった忠霊塔などではなく、個人や集落の単位で建立された慰霊碑などは、国レベルで、あるいは一研究者や一機関のレベルで網羅的に把握することは難しく、地元の郷土史家や集落単位で、大きくてもせいぜい市町村レベルの地方自治体で、それぞれに関わっていくしかないと思うんです。でも、そのへんの維持管理主体をうまく受け渡しすること自体が、大きな課題となっています。

生きているものが生きていくこと自体が大変な時代には、死者までなかなか手が回らないものですからねえ。

戦没者慰霊碑780基に「損壊」 遺族ら高齢化で維持管理に限界
2020/7/28 6:00
西日本新聞 社会面 久 知邦

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刑事だった父の形見の手錠を前に、遺族会の高齢化による忠霊塔の維持管理について不安を漏らす高木計宝さん(左)と弟の雄司さん

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太宰府小敷地内に立つ忠霊塔。太宰府市遺族連合会が長年、管理している。同小では、安全面などから忠霊塔の敷地に入らないよう児童に指導している=福岡県太宰府市

「郷土の歴史」として継承を

 太平洋戦争などの戦没者をしのぶために建立された慰霊碑や忠霊塔の維持が、管理を担ってきた遺族らの高齢化で難しくなっている。厚生労働省が2018年、民間が建立した碑を対象に行った調査では、全国にある1万6235基のうちひび割れや倒壊の危険があるものが780基あった。戦後75年、記憶の継承だけでなく戦争の歴史を物語る碑も課題に直面している。

 「いつまで忠霊塔を維持できるか」。福岡県の太宰府市遺族連合会の高木計宝(かずとみ)さん(87)は漏らす。同市の戦没者409柱を祭る忠霊塔は長年、会が管理してきた。四半世紀前までは100人ほどが清掃に集まっていたが、今では高齢の遺児ら10人前後にまで減ってしまった。

 刑事だった高木さんの父は強盗殺人事件の捜査をしていた1943年、召集令状が届き戦地へ。45年、フィリピンで「投下爆弾破片創」で戦死した。幼子3人を抱えて困窮した母は戦後、家族で列車に投身自殺しようとしたという。戦没者の無念さだけでなく、残された遺族の苦難も物語る忠霊塔が失われはしまいかと、高木さんは危ぶむ。

 日本遺族会によると、全国の遺族会の会員数は78年に104万世帯あったが、2019年に57万世帯に減少。戦没者の妻の平均年齢は95~96歳、遺児も78歳と高齢化が進む。一方、孫世代への活動の継承がなされず、各地の遺族会が碑の管理の問題に直面している。

 厚労省の調査では、ひびや倒壊の危険がある碑は九州7県に102基、現地を調査しても発見できないなど管理状況「不明」も106基に上った。こうした実態を受け、同省は16年度から碑の埋設や移設にかかる費用の半額を助成する事業を行ってきた。

 福岡県久留米市は17年、この事業を活用し、亀裂が入り倒壊の危険があった、合川小学校敷地内の忠霊塔を撤去した。安置されていた遺骨などは市内の国有地に立つ別の忠霊塔に合祀(ごうし)したという。長年、清掃など管理を続けてきた合川校区遺族会の佐々木秀敏会長(73)は「戦没者が生まれ育った場所で祭っていきたかったが、会員も減る一方で修繕費用もなく、苦渋の決断だった」と明かした。

 戦争に関わる碑を研究する中京大檜山幸夫名誉教授(日本近代史)は「碑は郷土から誰が戦争に行ったかを刻んだ文化財として捉えるべきだ。自治体が管理し、郷土教育に活用するのが望ましい」と話した。

(久知邦)

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/629982/

そう言えば、この番組がもろにそのテーマを扱ってますね。これは観てみよう。

www.nhk.or.jp

尼崎・ユニチカ記念館、解体の危機

尼崎には正直あまり縁がないんですけど、工業都市としての尼崎の近代化の歴史をとどめる遺産って、あんまり残ってない気がするんですけどねえ。こういう建築物は、解体したらそれで終わりです。

ユニチカ一社ではどうにもならないのかもしれませんが、倉敷のクラボウ記念館がかなり立派な記憶装置としてあるのを考えれば、尼崎にとってやっぱりもったいないことですよ。

www.ivysquare.co.jp

東洋紡にもこういうのありますしね。

hardcandy.exblog.jp

2020/7/27 07:00神戸新聞NEXT
尼崎・ユニチカ記念館、解体検討 1900年完成の洋風建築、近代化遺産

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解体が検討されているユニチカ記念館=尼崎市東本町1(撮影・風斗雅博)

 1900(明治33)年建設の洋風建築で、経済産業省の「近代化産業遺産」に選ばれている尼崎市東本町1のユニチカ記念館(旧尼崎紡績本社事務所、現在は休館中)について、所有する繊維大手「ユニチカ」が解体する方向で検討していることが26日、分かった。老朽化が進み、耐震化工事などに多額の費用が見込まれることが理由。文化的価値や工都・尼崎の発展に貢献した経緯などから、文化財関係者からは惜しむ声が上がる。

 同館を本社事務所として建設した「尼崎紡績」はユニチカの前身に当たる。建物は英国式れんが造りの2階建てで、尼崎市内に現存する最古の洋風建築。兵庫県の景観形成重要建造物にも指定されている。内部には暖炉や応接室などがあり、近年は創業以来の史料や、64年東京五輪で優勝した女子バレーボール日本代表ゆかりの品などを展示していた。

 尼崎紡績の初代社長を務めた広岡信五郎は、2015~16年のNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でヒロインのモデルとなった実業家・広岡浅子の夫。朝ドラ効果で来館者が急増したが、建物の老朽化により昨年7月から休館している。

 ユニチカによると、改修や耐震化などの工事には億単位の費用が見込まれるため、解体する方向で検討を進めている。同館の住所に置いていた本店所在地も今年6月の株主総会で大阪本社(大阪市中央区)への変更が承認された。跡地の活用方法は未定という。

 尼崎紡績は尼崎で最初に造られた大工場だった。尼崎市文化財収蔵庫の学芸員、桃谷和則さん(58)は「尼崎紡績の成功により、明治維新の変化に乗り遅れた城下町・尼崎に工場が集まり、経済的な発展を遂げた。工業都市・尼崎の出発点といえる施設」と評する。

 近代建築史が専門の笠原一人・京都工芸繊維大助教(49)は「屋根と壁の接合部は欧州で伝統的な格調高いデザインで、車寄せも設けられていて品格がある。尼崎の近代化の象徴。残してほしい」と訴えている。(伊丹昭史)

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202007/0013546675.shtml

朴元淳・ソウル市長の「死」をめぐる2本の記事

朴元淳・ソウル市長の「死」については、いろんなことが言われていて、全部読もうにも読み切れないのですが、そんな中で記録と記憶にとどめておくにふさわしいと思われる日韓の論説とインタビュー記事。

セクハラを追求する側として登場し、セクハラを追求する側として退場した人物個人について、直接関わりのない部外者ながら思うことはないではありません。ただ、追悼は追悼として、他方で真相究明や責任追及はまたそれとして、ともに行なわれるべきでしょう。関わりが深かったり、陣営論理のただ中にいたりすると、言うほど簡単ではないとは思います。でもそこは、建前を守るべきところではないでしょうか。

[단독] 박원순의 추락…26년전 그를 스타로 만든 여판사 일침
[중앙일보] 입력 2020.07.24 00:52 수정 2020.07.24 01:55 | 종합 26면
장세정 기자 사진 장세정 기자

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이은경 전 한국여성변호사회장이 22일 서울시청 건물 앞에서 "대한민국 수도 서울의 시장실에서 한 여성이 성추행을 당해 울고 있었는데 우리는 몰랐다. 지금은 2차 피해로 더 많이 울고 있다. 성범죄 묵인·방조와 고소 기밀 유출 등의 책임을 반드시 규명해야 한다"고 말했다. 장진영 기자

박원순 전 서울시장이 '여성 인권 대변자'로 각인된 계기는 1990년대 세상을 떠들썩하게 했던 '서울대 신 교수 성희롱 사건'이었다. 92년 5월 서울대 화학과 실험실에 취업한 우 조교는 신 교수가 기기 교육을 이유로 불필요한 신체 접촉을 계속한다며 불쾌감과 거부 의사를 표시했다. 이듬해 6월 재임용에서 탈락한 우 조교가 대자보를 붙여 억울함을 공개 호소하자 신 교수는 우 조교를 명예훼손으로 고소했다.

서울대생과 여성단체가 공동대책위원회를 꾸려 그해 10월 신 교수와 서울대 총장, 대한민국 정부를 상대로 5000만 원의 민사 소송을 제기했고 대법원까지 가는 우여곡절 끝에 99년 6월 신 교수에게 500만원 배상 판결이 나왔다.

[장세정 논설위원의 직격인터뷰]
[박원순 스타 만든 최초 성희롱 판결 여판사 이은경]
죽음으로 모든 과오 덮을 수 없어
고소 내용 빼내 말 맞췄다면 특권
'공소권 없음'으로 끝낼 범죄 아냐
여성가족부의 침묵은 직무유기
조직문화 안 바꾸면 성범죄 반복

변호사 박원순은 성희롱(Sexual harassment)이란 용어조차 생소하던 당시 직장 내 성희롱에 관한 국내 최초의 소송을 맡은 6인 변호인단의 일원으로 활약했다. 여성권익 신장 공로를 인정받아 98년 '올해의 여성운동상'을 받으며 스타가 됐다.

하지만 역설적으로 20여년 뒤 여비서를 성추행한 혐의로 고소당하자 불과 이틀 만에 극단적 선택으로 생을 마감했다. 시민운동가이자 '여성 인권 대변자'에서 '최초의 성추행 혐의자 서울시장'으로 추락했다.

제9대 한국여성변호사회장을 역임한 이은경(56) 법무법인 산지 대표변호사는 94년 5월 신 교수에게 3000만원의 배상 책임을 판결한 1심 재판부(서울민사지법)의 유일한 여성 판사였다. 국가인권위원회 위원을 지낸 그를 지난 22일 만나 당시 성희롱 판결과 박 전 시장 성추행 사건을 주제로 인터뷰했다.

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1998년 2월 당시 박원순 변호사(왼쪽)가 '서울대 신 교수 성희롱' 사건 소송에서 승소한 뒤 축하 모임에 참석한 모습. 국내 최초 성희롱 배상 판결을 받아낸 그는 '여성 인권 대변자'로 평가받았다. [중앙포토]

  • 최초의 성희롱 배상 판결에 참여했다.

"91년 판사로 임용돼 서울남부지원에 부임한 당시는 법원 건물에 여자 화장실조차 없던 시절이었다. 성희롱 개념을 처음 알리고 판례를 만드는 재판이어서 엄청 힘들었다. 박장우 부장판사(법무법인 미래 대표변호사), 강승준 주심 판사(서울고법 부장판사)를 포함한 우리 재판부는 고심을 많이 했다. 3000만원 배상 판결 이후 '법원을 폭파하겠다'는 항의 전화까지 빗발쳤다. 그 판결을 계기로 성희롱 방지 조치에 대한 법적 근거가 마련되기 시작했다. 당시 판결이 한국 사회의 흐름을 선도해 바꾸는 데 기여했다고 본다."

  • 당시 3000만원 판결이 널리 회자했다.

"액수가 많아 보여도 여성에 대한 성희롱과 음담패설이 만연한 한국사회에 그 판결이 경종을 줄 것으로 생각했다. 그 이후 적대적 성차별은 많이 줄었고 성범죄 형량도 엄청 높아졌다. 반면 온정적 성차별은 여전하다. 전통적 여성 역할을 잘하는 여성에게 보상해주는 식의 차별은 계속되고 있다."

  • 최초의 성희롱 소송을 이끈 변호사가 성추행으로 피소됐다.

"충격적이다. 당시 재판 과정에서 박원순 변호사의 기여가 컸다. 법정에서 차분한 논리로 변론하던 모습이 기억난다. 2016년 여성변호사회장에 취임한 뒤 박 시장을 방문한 적 있다. 성희롱 판결을 언급했더니 '미국에서 성희롱 개념을 처음 접하고 이를 한국에 도입해야겠다고 생각하던 차에 그 사건을 맡게 됐다'고 기억하더라."

  • 그는 '페미니스트 시장'을 자처했다.

"서울시 정책의 디테일을 10년간 챙겼고, 지지세력으로 이뤄진 이익공동체를 먹여 살리는 가부장 같았다고 한다. 드러난 그의 행동을 보면 적대적 성차별도 보이지만, 온정적 성차별에 가까워 보인다. 남성이 여성을 사랑하고 부양자로서의 책무를 다하고 있다는 지배 논리를 은연중에 강화하는 것이다. 낮잠을 여비서가 깨워야 박 시장이 화를 안 냈다니 바로 이런 게 은근한 온정적 성차별이다."

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'서울시장에 의한 위력 성폭력 사건' 피해자 측의 지난 22일 2차 기자회견 장면. 김상선 기자

  • 박 시장은 떠났지만, 피해자는 지금도 고통받고 있다.

"피해자에 대한 2차 가해가 심각하고, 변호인에 대한 신상털기와 공격이 폭력에 가깝다. 유서에 '모두 안녕'이라고 쓰면 끝인가. 피해자에게 사과라도 한마디 해야 했다. 피해자가 서울지방경찰청에 가서 성폭력 피해 사실을 진술하던 바로 그 시간(8일 밤)에 서울시장 공관에서 측근들과 대책회의를 했다니 지극히 비정상적이다. 고소 내용을 미리 입수해 말맞추기를 했다면 반칙이고 특권이다."

  • '공소권 없음'으로 끝낼 사안인가.

"피고소인이 사망해 통상적으로 그런 처분이 나올 거다. 그러나 고소 내용 기밀 유출, 서울시의 묵인과 방조, 2차 가해 등 여러 혐의에 대한 수사가 진행 중이니 사실 규명은 불가피하다. 서울시청에서 일어난 일인 만큼 국가 배상 책임도 문제 된다. 공소권 없음에 빗대어 사건을 간단히 처리하면 절대 안 된다. 이 정부 들어 공소시효가 완성된 사건도 대통령 지시로 다시 수사했다. '공소권 없음' 사건이라도 진실을 규명할 의지와 용기가 있느냐가 중요하다."

  • 판사 출신인데 고소장대로라면 어떤 처벌이 가능한가.

"업무상 위력에 의한 추행은 성폭력 특례법 10조 위반으로 3년 이하의 징역 또는 1500만원 이하의 벌금을 물린다. 텔레그램 등 통신 매체를 이용한 음란 행위는 성폭력 특례법 13조 위반으로 2년 이하의 징역 또는 2000만원 이하의 벌금 감이다. 몸을 만지는 등 강제 추행은 형법 298조 위반으로 법정 형량은 10년 이하의 징역 또는 벌금 1500만원 이하다."

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고 박원순 전 서울시장의 집무실 입구 모습. 박 시장이 도입한 따릉이 자전거가 놓여 있다. 최은경 기자

  • 일부 지지자들은 "자살로 책임을 충분히 졌다"고 강변한다.

"누구나 삶에 공과가 있다. 다만 죽음으로 과오를 덮으려 하고, 극단적 선택을 동정하거나 미화해서는 안 된다. 부검 없이 바로 장례를 치렀지만, 자살에 대한 ‘심리 부검’을 반드시 하면 좋겠다. 우리나라는 OECD 회원국 중 자살률 1위다. '자살 예방법'에 따르면 자치단체장에게 자살 예방책임이 있다. 진상을 철저하게 규명해 누구든지 죽음으로 과오를 덮을 수 없다는 인식을 심어줘야 한다. '문제가 생기면 극단적인 선택을 한다'는 나쁜 선례를 없애야 한다."

  • 일각에서 "왜 4년이나 지나서 문제를 제기하느냐"며 피해자다움을 지적한다.

"피해자다움(Victimhood)을 강요하면 안 된다. 성(性)인지 관점이 없어서 그렇다. 성인지 감수성이란 용어보다는 성인지 관점이 더 적절한 용어다. 안희정 전 충남지사 2심 재판에서 피해자다움을 부정하고 피해자의 '학습된 무기력'(Learned helplessness)을 인정했다. 그런데 진혜원 검사는 피해자를 조롱했다. 미투(Me too) 운동으로 쌓아온 공든 탑을 무너뜨리고 여성계의 노력을 깎아내린 행동이다."

  • 정치적 진영 논리에 따라 반응이 엇갈렸다.

"편 가르기 때문에 ‘옳고 그름’이 달리 평가되는 건 법치국가에서 있을 수 없는 일이다. 진영과 정치 논리가 개입할 사건이 전혀 아니다. 여야 불문하고 권력형 성범죄에 대한 피해자 지원과 재발 방지에 한목소리를 내야 할 사건이다. 위력에 의한 성폭력이라는 핵심 쟁점이 여야 대결과 정치 논리에 매몰되는 것이 더 큰 문제다. 무엇보다 시간이 흐르면서 진실을 밝히고 오류를 바로잡을 기회가 흐지부지될까 우려스럽다."

  • 서울시·경찰·여성가족부·민주당·청와대의 대응을 어떻게 보나.

"여성폭력방지기본법은 피해자를 당사자는 물론이고 배우자, 직계 친족, 형제자매까지 아주 넓게 규정한다. 이 사건 피해자를 여당 측은 '피해 호소인'이라 불렀다. ‘피해자와 가해자 구도’를 받아들일 수 없다는 태도였다. 박 시장을 가해자로 보이지 않게 하려는 의도였다. 미온적 태도를 넘어 고소 내용 관련 정보를 제공해 시간을 벌게 해줬다는 의혹까지 받고 있다."

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이해찬 더불어민주당 대표는 지난 10일 박원순 전 서울시장 빈소에서 질문한 기자에게 심한 욕설을 내뱉어 비난을 받았다. 민주당은 성추행 피해자를 '피해 호소인'이라고 불러 여론의 뭇매를 맞았다. [중앙포토]

  • 정부는 역할을 제대로 했나.

"국가와 지자체는 피해자를 보호하고 지원할 의무와 2차 피해를 방지할 의무가 있다. 그런데 국가와 지자체가 2차 피해를 방관할 뿐 아니라 정치권은 한술 더 떠 피해자에 대한 2차 가해에 동조하는 듯하다. 가족장이 아니라 5일간 서울특별시장(葬)을 강행한 것부터 2차 가해로 볼 수 있다. 지금이라도 여가부는 인터넷 댓글과 유튜브에서 벌어지는 2차 피해를 막고 피해자를 보호할 의무가 있다. 가만히 있으면 직무유기다. 이정옥 여가부 장관이 공개적으로 한마디 해야 한다. 여성 비하 논란을 일으킨 탁현민을 중용한 청와대 인사를 여성계는 나쁜 사례로 본다. '페미니스트 대통령'이라며 여성인권 존중을 말로만 할 게 아니라 지금 행동으로 진정성과 의지를 증명해야 한다."

  • 성희롱 판결 이후 20년이 흘렀는데 성범죄가 끊이지 않는다.

"적어도 이번 사건에서는 법과 제도의 미비보다는 법률에 대한 존중과 준수가 더 문제다. 성희롱은 차별적 조직문화의 또 다른 이름이다. 여성의 성희롱 경험비율은 최고경영자(CEO)의 성 평등 인식과 여성 관리자 비율에 반비례한다는 연구가 있다. 인사권과 의사결정이 합리적 절차와 공식 시스템을 통해 움직이고 연공서열보다 개인의 성과를 중시할수록 성희롱 경험률은 낮아진다. 침묵하고 회피하는 집단주의 조직문화가 가장 큰 문제다. 양성평등을 촉진하고 성범죄 방지를 위해서는 조직문화를 바꿔야 한다. 조직문화가 현저히 개선되지 않으면 성범죄는 끊임없이 반복될 것이다."

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이은경 변호사는 22일 서울시청 본관 앞에서 진행한 중앙일보 인터뷰에서 "침묵하고 회피하는 집단주의 조직문화를 바꾸지 않으면 한국사회에서 성범죄는 앞으로도 계속 터질 것"이라고 경고했다. 장진영 기자

◇이은경=1964년 제주 태생. 고려대 법대 및 동 대학 법무대학원 석사. 사시 30회로 판사에 임용된 뒤 서울중앙지법 판사를 역임했다. 서울지방변호사회 법제위원장, 경찰청 인권위원, 국가인권위원회 비상임위원, 대한변호사협회 부회장을 지냈다. 2016년부터 2년간 한국여성변호사회장으로 활동했다.

장세정 논설위원

https://news.joins.com/article/23832218

韓流パラダイム
ソウル市長の常習セクハラを放置した民主化世代の死角
堀山明子・ソウル支局長
2020年7月25日

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7月13日午前に営まれた朴元淳市長の死去に伴うソウル特別市葬。「時代とともに、市民とともに」と書かれている。混乱を避けるため会場参加者は少数に限定し、市はオンラインで中継した=ユーチューブ画面より

 「すべて、さいなら」。元秘書の女性からセクハラで刑事告発された翌日の7月9日に自殺した朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長(享年64)は、信じられないほど軽い口調の遺書を残していた。人権派弁護士から市民運動活動家、政界進出へと、韓国民主化運動の発展とともに権力の階段を上り続けたカリスマ的リーダーとしてのイメージとはかけ離れた人生の終わり方だった。

 韓国の市民社会は「不可解な死」をまだ受け止め切れていない。セクハラ防止策を全国に先駆けて導入してきた市長が、部下を性的な癒やし相手のように見て接していたことが第一の驚きだ(具体的内容は後述する)。さらに、元秘書が市幹部に助けを求めていたものの、それが数年にわたり放置されてきたことでダブルのショックとなった。女性団体は「市長が亡くなれば、構造的問題がなくなるわけでも、被害者の人権が回復するわけでもない」と訴えている。政治的には進歩的でも、男尊女卑的な意識や慣習を脱皮できずにいる「民主化運動世代」の意識が、公然と批判される事態となった。

不可解な死、検死結果も公表なし
 遺書は市長公邸の机の上で発見された。短いので、まずは全文を紹介する。

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公開された朴元淳ソウル市長の遺言状。公邸の机の上にあったという=ソウル市提供

 「すべての方々におわびします。人生をともにしてくれた方々に感謝します。苦労ばかりかけた家族には、ずっと、すまない気持ちだ。火葬して両親の墓にまいてくれ。すべて、さいなら」

 最後は「アンニョンヒケセヨ」の省略形「アンニョン」で終わる。「さらば」「あばよ」と片手をサッと上げるイメージかと思ったら、韓国人記者に言わせると「そんなに格好良くない。60代が使うとは思えない軽い口調」だという。とりあえず「さいなら」と訳したが、「バイバイ」というニュアンスのほうが近いかもしれない。「すべて、さいなら」の「すべて」は、「すべての皆さん」の意味なのか、「人生のすべて」なのか、どちらにも読める。

 インターネットの掲示板でも「最後の言葉は違和感がある」「まるで捨てぜりふみたい」と話題になった。市政もトラブル処理も全部投げ出したという事態の重みと、遺言の表現の軽さに、ギャップを感じる人が多いようだ。

 遺書そのものにも違和感がある。ソウル市は10日、公邸の机の上にあった半紙の遺書の写真を公開した。半紙の横に、日本製の筆ペンとインク用の小皿が整然と置かれている。インクが不要な筆ペンの横に、なぜインク用の小皿を置いたのだろうか。筆跡をみると全体が均等にかすれていて、インクを使った形跡は見当たらない。本当に、自分に対する刑事告発を知った後に絶望して書いた遺書なのかと疑いたくなるほど、見た目が美しく整っているのだ。

 朴氏の遺体発見時の状況や死因、検死結果は、今も公表されていない。監視カメラに残った最後の記録は9日午前11時前、青瓦台(大統領府)の裏山に向かう公園付近のものだという。青瓦台付近は1968年に北朝鮮特殊部隊による襲撃事件が起きた経験を踏まえ、監視カメラが張り巡らされているはずなのに、そこから山中の遺体発見場所まで約1.5キロを歩いた際の撮影記録がないというのは不思議だ。

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ソウル市内の山中で朴元淳ソウル市長を捜索する韓国の警察当局=聯合・共同

 文在寅政権は不動産価格高騰への対策で苦戦していて、ソウル市が次世代に緑を残す都市計画の一環として定めた「グリーンベルト」(開発制限地域)を一部解除して公共住宅を建設するよう、7月初めから市への説得作業を本格化させていた。そんな中での死だった。朴氏の死後、文政権はグリーンベルト解除を断念した。セクハラ疑惑だけが死因ではなく、文政権との葛藤が背後にあるのではないかと、保革双方から臆測が飛び交う。次期大統領候補と目される朴氏が与党・共に民主党の主流派からみて邪魔者だったという見方もある。

特別市葬を巡る攻防

 朴氏の死を巡る確定情報が欠ける状況の中、ソウル市は朴氏の葬儀を特別市葬で営むことを決めた。日本の通夜にあたる出棺前の弔問期間は通常より長い5日間、出棺・告別式を含む葬儀費用10億ウォン(約9000万円)以上を公費でまかなうと報じられた。野党各党だけでなく与党議員の一部も、公務中でもない不名誉な死を遂げた市長の葬儀に対する公費支出に反対し、弔問を拒否。青瓦台の請願サイトでは、特別市葬の反対を求める署名が58万人を超えた。

 一方、市葬儀委員会は11日、「故人に対する一方的で、確認されていない内容の主張は名誉毀損(きそん)にあたる」とセクハラ問題情報の拡散を強くけん制した。ソウル市庁前広場とソウル大病院内に設置された焼香台への弔問者は100万人を突破。朴氏支持者はネット上の掲示板に「告発者を探し出して、根性をたたき直す」などと2次被害を誘発するコメントを相次いで書き込んだ。また、ソーシャル・ネットワーキング・サービスSNS)を通じて告発状の内容の一部が流出したり、告発者だと誤解されて個人情報を流された別の市職員が批判を受けたりする異常事態に発展した。

 朴氏は2011年に市長に初当選した。朴氏が進歩系の統一候補になる過程で大きな役割を果たしたある政治家は、弔問しないと表明した。後日、その真意を聞くと、「苦渋の決断だった」と語った。「問題があっても、一度は深い縁があった人の冥福を祈るのは、人として道理だと分かっている。でも、弔問ムードが拡大すると、被害者に沈黙を強いる圧迫になるのではと思った。もし家族葬にしてくれたら、こっそり遺族をなぐさめに行けたのに」

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ソウル市庁舎入り口には、哀悼を祈るメッセージが書かれたふせんが貼り付けられた=2020年7月13日、渋江千春撮影

「#Me Too」運動後退の危機

 5日間の弔問期間の最終日にあたる13日、告別式を終えた正午すぎに速報が入った。「午後2時から告発者の弁護士が会見する」。弔問中は遺族感情に配慮して沈黙を守っていたが、セクハラ被害者の人権回復と真相究明を求める戦いの火蓋(ひぶた)は切られたのだ。

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元秘書が刑事告発した経緯を説明する弁護士と韓国性暴力相談センター所長ら=ソウル市内で2020年7月13日、堀山明子撮影

 元秘書側は13日と22日に記者会見し、また16日には報道資料を通じて、告発内容とこれまでの経緯を公表した。事実関係を整理すると、概略は次の通りだ。

 ▽元秘書として勤務した時期と異動後を含め4年間にわたり、朴氏から威力的な権力を背景にしたセクハラを受けてきた。16年1月から半年ごとに募る異動調査で秘書室から出たいと毎回希望し、異動前に17人、19年7月に秘書室から異動した後にも3人の上司や人事担当者を含む市職員に相談してきたが、セクハラ問題は解決されなかった。

 ▽このため今年7月8日、市長を刑法の強制わいせつ容疑、性暴力特別法違反容疑などで刑事告発した。具体的なセクハラの例を挙げると次のような行為があった。

 ・一定時間で情報が消える機密性の高いアプリ「テレグラム」の秘密チャットで深夜に対話を求めてきたり、市長本人の下着姿の写真を送りつけてきたりした。

 ・市長室内にある寝室で、昼寝をした市長を起こす/運動後にシャワーを浴びた市長の運動着と下着を片付けて市長宅に届ける/朝晩血圧を測る――などの仕事は元秘書の役割だった。元秘書は「家族や医療スタッフが行うべきだ」と主張したが、聞き入れられなかった。

 ▽元秘書は、問題を放置した市幹部らについても、強制わいせつほう助疑惑などで刑事告発した。市幹部らは、元秘書が市長決裁を受ける際に「ご気分はいかがですか」と質問するよう求め、「市長を気持ちよくすること」を業務の評価基準としていた。こうした行為は、性暴力発生と性役割分担という差別の助長、ほう助、黙認にあたると指摘する。

 他にも以下の疑惑が挙げられた。

 ・元秘書がテレグラムなどの証拠を提示して異動を求めたが、「直接市長に頼め」と問題解決を拒否した。

 ・セクハラを相談しても「あなたがきれいだからでしょう」と黙認したり、「秘書は顔で選ぶ」などの会話を来客者としたりするのを放置していた。

 ・元秘書が秘書室から異動した後も「今後30年の公務員生活を楽にしてあげるから」と秘書復帰を説得した。

 13日の記者会見で代読された元秘書の声明には、すぐに声を上げられなかった「弱い自分」を責めた日々の思いが語られていた。自分を守り、市長を許すためには法的な審判が必要だと考え、市長から「人間的な謝罪の言葉を受けたかった」と訴えた。審判を拒んで自殺を選んだ市長に対し、「私は最もつらかった時ですら死を考えなかった」と記し、失望と不信が交じった複雑な心境を明かした。

 「加害者が亡くなったからと真相究明をやめたら被害者の人権回復の機会が失われ、(セクハラ撲滅運動の)『#Me Too』(ミートゥー)は大きく後退する」。元秘書を支援する女性団体幹部らは13日の会見でこう強調し、危機感を隠さなかった。22日の会見では、元秘書が「今さら何だ」「証拠を出せ」という非難にさらされていると報告し、「セクハラ被害を受け、勇気を出して告発しようとする女性たちに警告を与えるものだ」と沈黙を強要する社会的圧力を批判。その上で、今は「勇気への連帯」が必要だと訴えた。

なぜ訴えは放置され続けたのか

 元秘書側の会見を受け、ソウル市報道官は15日、民間の専門家を加えた調査を約束した。ただ、元秘書からは市職員の相談窓口を通じた「公式の訴えはない」と話し、元秘書についても「被害者」ではなく、「被害を訴える人」と表現して事実関係を争う可能性をにおわせた。

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朴元淳ソウル市長によるセクハラ疑惑の調査団発足を発表する黄寅植(ファン・インシク)報道官=ソウル市役所で2020年7月15日、堀山明子撮影

 青瓦台も、共に民主党も同じ表現を使い、ソウル市を援護した。政府・与党が「被害者」と足並みをそろえて呼ぶように変わったのは、李貞玉(イ・ジョンオク)女性家族相が17日、「被害者」と呼んだ後からだ。ただ、李氏自身も世論の批判を受けてようやく被害者保護に乗り出した格好で、積極的な姿勢はみられない。「性暴力は一発で退場」が持論の女性閣僚、秋美愛(チュ・ミエ)法相も今回は発言を控えている。

 進歩系で人権に敏感であるはずの政府・与党が、朴氏批判に慎重なのは、彼が韓国でセクハラ訴訟第1号とされる1993年の「ソウル大助手セクハラ事件」で勝訴した「人権弁護士」としての実績を持つからだろう。共に民主党内では4月の総選挙直後に国内第2の都市・釜山の呉巨敦(オ・ゴドン)市長がセクハラで辞任したばかり。女性運動と連携してきた朴氏を巡るセクハラ疑惑論争までが長引けば、政府・与党の痛手はさらに大きくなる。

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自殺の前日にあたる7月8日、2050年までにソウルで運行するすべての車両を環境にやさしい電気・水素自動車に変える「ソウル版グリーンニューディール」を発表する朴元淳ソウル市長。この時までは変わりなく仕事をしていた=ソウル市提供

 朴氏は市長としても、働く女性のために制度改革に取り組んできたのは事実だ。初当選直後の12年に「セクハラ・性差別のない平等な職場作り総合計画」を発表。14年には被害者保護に消極的な管理者を懲戒する制度を作るなど、セクハラ防止策の先駆都市として海外から視察が来るほどだった。19年には市長が任命するジェンダー特別補佐官というポストを新設し、性差別される側の視点から広報資料に問題ないかを事前にチェックする仕組みを整えた。市長自身、今年6月初めにセクハラ予防教育を職員とともに受けている。

 「せっかく先駆的な制度を整えたのに、何だったのでしょうね」。一般行政職の若手女性職員は、朴氏のセクハラ疑惑を報道で初めて知って、力が抜けたという。「(市長が採用する副市長ら)政務職幹部がどんどんアイデアを進め、(公務員試験で採用された)行政職幹部はその速度についていける人だけが出世するので、市長の顔色をうかがう雰囲気が職場に常にあった」と指摘し、下からの声が市長に届きにくい環境だったのではと推測する。「メディアの報道など、外からの圧力で変わればいい」。今回の告訴後の市役所内の意識変化に期待する。

市民運動型ガバナンスの理想と現実

 セクハラ防止には相手の立場になって考える「性認知感受性」が必要と頭で分かっていたはずの朴氏が、自分の一方的な好意が権威主義的、威圧的な行為だということに気づいていなかった。こういう例は実は、韓国の20、30代女性に言わせると、パワハラ・セクハラに鈍感な「民主化世代あるある現象」らしい。軍事政権と戦った経験から、自分は「脱権威」を体現していると思い込んでいるが、民主化を成功させた自信が常にあるので、若者には上から目線で接し、押しつけがましいのだという。

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1995年10月21日、ソウルYMCAで開かれた「雇用平等推進本部」発足式に出席した人権弁護士時代の朴元淳氏(右端)=朝鮮日報提供

 性平等実現を目指す週刊紙「女性新聞」のコラムニストは、70年代に民主化運動をした朴氏をかばう文政権主流派の86世代(60年代生まれで、80年代に大学で民主化運動をした世代)について「フェミニズム問題への取り組みでの限界は明らか」と指摘。朴氏に対する元秘書の刑事告発を通じ「86世代の家父長政治が死亡した」と言い放った。

 市民運動時代や市長時代の朴氏は、脱権威のシステムを作ろうとしたアイデアあふれるリーダーだった。94年に財閥や政治腐敗を監視する市民団体「参与連帯」設立を主導し、2000年には腐敗政治家のリストを作る落選運動を展開して注目を浴びた。リサイクルショップ「美しい店」、まちづくりビジネスを研究実践する「希望製作所」の設立を通じて、NPOが大企業の寄付や地方自治体の補助金を受ける仕組みを作った。市長としては、都市部中心の再開発ではなく、地域のまち再生を目指し、地区ごとに市民団体と連携して福祉センターや貧困対策拠点を築いた。だが、社会変革を目指していた市民団体やNPO補助金をあてにするようになり、市民社会が変質したという指摘もある。

 「公共事業を市民社会と行政が分け合う当初の発想は良かったが、実際には市民団体が行政の下請けのようにプロジェクトを運営するようになり、官製化した。その結果、人も金もあるのに市民運動の自律性が失われ、運動としてはむしろ萎縮した側面がある」。朴氏と長年つきあいのある市民運動関係者はこう指摘する。この関係者によると、脱権威で新しいシステムを作ったが、結局はトップダウン式管理になってしまうのが民主化世代の課題だという。

 ソウル市政を日本に紹介する本を朴氏と共著で出版した、日本のNPO「官製ワーキングプア研究会」理事長の白石孝氏は、地域の有機農家の生産者と都市の消費者が学校給食を通じてつながるプロジェクトの現場を視察した経験がある。「セクハラ疑惑だけでなく、朴氏のガバナンス(統治)が意思決定のあり方において問題がなかったかの検証は必要だろう」と指摘しながらも、朴氏の功績については「プロジェクトの現場の一人一人が彼の死後もアイデアの芽を育て、実践できるかにかかっている」と評価が定まるまで見守る考えだ。

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2000年2月2日、総選挙で落選すべき腐敗候補のリストを発表する朴元淳・総選挙市民連帯共同執行委員長(中央)=朝鮮日報提供

引き継がれなかった宿題

 暮らしの中での意識改革を数々提案してきた朴氏は、遺言執筆を呼びかける運動もしていた。市民運動家時代の02年に出版された「成功する人の美しい習慣」という本には、自分の子供と妻、仲間あての長文の遺言がそれぞれおさめられている。子供には、「財産を残さないのが財産」と自分の人生を誇る。活動を共にした知人あての遺言では、強引な性格で傷つけたかもしれないことをわびながら、こう続ける。

 「一緒に夢見た、きれいで人間的な世界を作るため、全力を尽くした。できなかった部分はみなさんが引き継いでくれるものと信じます」

 実際には、何の引き継ぎもないままの最後だった。告別式あいさつで葬儀委員長が「あなたの死は、我々に省察という新たな仕事を作った」と語ったのが印象に残った。民主化世代が、重い宿題を背負ったように感じた。

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遺体が安置されたソウル病院に掲げられた朴元淳ソウル市長の遺影=AP

https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20200724/pol/00m/010/011000c

群馬・渋川市の「頭文字D」聖地巡礼、「加速」地点にマンホール

…なんかスリップ注意な見出しになってしまった。

渋川というか、群馬県自体、ちゃんと訪れたことってないんですよね…。北関東は極私的に空白地帯です。当分行く機会はないかもしれませんが、もし行ければ、拓海が缶コーヒーを思いっきり壁に投げつけた建物脇とか、拓海となつきが2時間消えて戻ってきたエリアの入口とか(だいたい同じ場所な気がする)。

群馬・渋川市で「頭文字D聖地巡礼「加速」 市内7カ所に特製マンホール
毎日新聞2020年7月22日 08時45分(最終更新 7月22日 08時45分)

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頭文字Dとコラボしたマンホールの蓋のレプリカを持つ群馬県渋川市の高木勉市長=群馬県渋川市で、2020年7月20日、庄司哲也撮影

 群馬県渋川市は同市がメイン舞台の人気漫画「頭文字(イニシャル)D」とコラボレーションしたアニメツーリズムを推進すると発表した。主人公の藤原拓海や愛車ハチロクトヨタAE86)などが描かれたマンホールの蓋(ふた)を市内7カ所に設置するなどして、ファンが作品の舞台を観光する「聖地巡礼」を盛り上げる。

 当初は大型観光企画「群馬デスティネーションキャンペーン(群馬DC)」(4~6月)に合わせて実施予定だったが、新型コロナウイルスの影響でDC関連のイベントが軒並み中止となった。このことから今回、22日から始まる政府の観光支援策「Go Toトラベル」に合わせ改めて準備した。

 伊香保温泉など7カ所に設置したマンホールの蓋をファンに探索してもらうほか、漫画とコラボしたラッピングバスも運行するなど多彩なメニューを用意する。27日午後1時から渋川駅前広場でオープニング式典を開催する。【庄司哲也】

https://mainichi.jp/articles/20200722/k00/00m/040/013000c

伊香保舞台の人気漫画 「頭文字D」で観光客を呼び込め! 渋川市が27日から推進事業
2020年7月22日 07時33分

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 渋川市は同市伊香保町一帯を主な舞台とする人気漫画「頭文字(イニシャル)D」のデザインマンホール設置などで、ファンを伊香保温泉を含む市内観光地に呼び込むアニメツーリズム推進事業を二十七日から始める。

 マンホールはオリジナルの図柄を七種類用意し、設置用と展示用を一枚ずつ作成。設置用は渋川駅前や伊香保温泉街など七カ所に配置する。

 渋川駅前に設置されるのは主人公の藤原拓海が愛車とともに同駅前にたたずむシーン=写真。八月一日からは、専用アプリをダウンロードして七カ所全ての設置場所を巡った先着千人にオリジナルクリアファイルを贈るデジタルスタンプラリーも始める。

 展示用マンホールは八月三〜十四日に市役所市民ホールで展示する。会場には軽い樹脂製のレプリカも用意し、手に持って記念撮影もできる。

 主人公の実家「藤原とうふ店」の店名や「頭文字D×SHIBUKAWA」のロゴを入れたラッピングバスを用意。七月二十七日から、関越交通と群馬バスが渋川駅伊香保を結ぶ路線で運行する。

 新たなマンホールカードの配布やオリジナルフレーム切手の販売なども準備している。

 「頭文字D」の活用は二〇一八年、渋川伊香保温泉観光協会やJTBなどが協力した「地域活性化プログラム」として始動。市は今年四〜六月の「群馬デスティネーションキャンペーン(DC)」に合わせ、JTBと連携し一連のイベントを行う予定だったが、新型コロナウイルスのためずれ込んだ。(渡辺隆治)

https://www.tokyo-np.co.jp/article/44103

というか、これやるんだったら、阪急中津駅とか、近鉄石切駅とか阿波池田駅とか、別の聖地巡礼を呼び込むチャンスあるんですけどねえ。やらんのかな。やったらええのに。

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まあ、いちばんの問題はたぶん、中津駅にマンホールを置くだけのスペースがあるかどうかでしょう。

映画「マルモイ」を観る。

これは、韓国での公開直前の時期に釜山の映画館でチラシを見たのですが、日程が合わなくて観れずじまいだった作品です。今回、京都シネマでようやく観ることができました。

marumoe.com

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「鳳梧洞戦闘」に続いて主役を張ったユヘジンですけど、やはり泥臭い役は似合いますね*1。キャラクターの魅力でストーリーをどんどん編み上げていくんですから、名脇役に留めておくのはもったいない人です。

実は、韓国の知人からは「まあ、微妙やけどね」という評価を聞いていたのですが、その意味するところは分かっています。下のコラムにあるように、これは「虚実入り混じった」作品で、日本官憲側の描写が都合よく単純化されている点は否めません。ただ一方で、このストーリーの根幹となる事件があったのは確かで、そのエッセンスを凝縮するための整理と演出という面もありますから、それは「そういうもの」として了解して観る必要があります。

もちろん、重いといえば重いテーマですけど、作品としてはコメディー要素もたっぷり入った、エンタテイメント性の高いつくりになっています。そういう意味で、作品としての見どころはむしろ、権力を目をかいくぐって抵抗する側の生きざまと、エンディングの「その後」にありますね。

個人的には、同じユヘジン出演作でも「鳳梧洞戦闘」よりも「タクシー運転手」を連想しました*2。観甲斐のある、いい作品です。

this.kiji.is

映画の舞台となっている40年代は、あらゆる面で日本による朝鮮への弾圧が強くなった、日本の戦争遂行のための犠牲を強制された時期である。10年の日韓併合に始まる日本の朝鮮支配は、31年の満州事変以降、「内鮮一体」(日本と朝鮮はひとつ!)、「日鮮同祖」(日本と朝鮮の祖先は同じ!)といったスローガンのもと、朝鮮語の使用禁止、創氏改名といった皇国臣民化や、軍隊への徴兵、労働者の徴用など、兵力や戦争物資の安定した確保のための政策を展開していた。とりわけ太平洋戦争勃発後は、「朝鮮人の日本人化」への動きが一段と強化され、現在韓国ではこの時代を「民族抹殺期」と規定しているほどである。日本人は朝鮮民族の言葉や名前と共に、朝鮮人としての精神までも奪おうとしたのだ。

こうした当時の社会情勢は、例えばパンスが働く映画館で上映されている『朝鮮海峡』(パク・ギチェ監督、1943年)という映画が朝鮮人の志願入隊を題材にしていることや、ドクジンが通う学校での朝鮮語使用禁止、創氏改名の強制などを通して描かれている。パンスの幼い娘が無邪気に日本語を話そうとする姿は、幼子の純粋さが際立つだけに、一層胸が締め付けられる場面である。

本作はそうした民族抹殺の時代を背景に、朝鮮語辞書を作ろうとした33人が逮捕されて拷問を受け、2人の死者が出た42年の「朝鮮語学会事件」をモチーフにしている。

今回のコラムでは、本作が虚実入り混じった作品であることを理解したうえで、どこまでが史実でどこからがフィクションなのかを明らかにしてみたいと思う。そのためには、映画の中心である「朝鮮語学会事件」とはどのような事件だったのか、そして「マルモイ」はどのように生まれたのか、その経緯を紹介していこう。

日本による朝鮮の植民地化が色濃くなっていく日韓併合の直前、朝鮮語学者チュ・シギョン(1876~14)は、朝鮮語消滅の危機感を抱き、本格的に朝鮮語研究を開始。そのために辞書の必要性を痛感した彼は11年、弟子たちと共に辞書作りに着手する。これが「マルモイ」の始まりなのだが、3年後チュの死とともに辞書作りは惜しくも中断し、再開したのは15年もの月日がたった29年のことだった。この年、朝鮮語学会に属する108人の学者たちが集まり、チュの遺志を継いで「朝鮮語辞典編纂会」という組織が発足したのである。

編纂会はまず、バラバラだったハングルの書き方を整えた「ハングル正書法統一案」を発表、36年には「朝鮮語標準語査正案」を定めて、およそ6000の標準語を指定した。ところが標準語は定まったものの、ここで別の問題が浮上してしまう。各地方の方言が抜けていたのだ。そこで彼らが思いついたのが、学会誌「한글(ハングル)」に全国の方言を募集する広告を出すことだった。すると、全国各地からそれぞれの方言や意味を記した手紙が殺到、ますます辞書作りにいそしんだというわけだ。

方言の収集をめぐっては、劇中でも公聴会を開いて標準語を決めたり、各地方出身のパンスの仲間たちの協力で方言を集める場面を通して描かれているが、映画が40年代として描いているのに対して、実際は36年の出来事である。ちなみに、お尻の細かな部位を示す「궁둥이(クンドゥンイ)」と「엉덩이(オンドンイ)」の違いが説明できなくて困っているジョンファンをパンスが助けるエピソードは、実際にあったものらしい。

40年には総督府からいったん辞書作りの許可を得たものの、翌年の太平洋戦争勃発により一気に社会全体が臨戦体制に転換、日本統治下の朝鮮で「民族抹殺」政策が厳しくなると、総督府は政策に真っ向から違反する「朝鮮語辞書」の存在を無視できなくなっていった。だが学会は弾圧に抗いながら辞書作りにまい進したため、42年、総督府は学会を独立運動団体に指定し、内乱罪を適用して33人のメンバーを検挙、「マルモイ」の原稿も没収してしまった。逮捕されたメンバーらは裁判にかけられ、投獄されたうちの2人が拷問を受けて亡くなっている。これが朝鮮語学会事件の概要である。

劇中では、ジョンファンとパンスが「マルモイ」の原稿を持って警察の追跡から逃げる場面があり、パンスは最後に駅の倉庫に原稿を隠すのだが、このあたりの描写は多くがフィクションである。ただし、現実は映画以上に奇妙な物語をたどることになる。

戦争直後、裁判の証拠品としてあちこちに散逸し、行方がわからなくなった「マルモイ」の原稿が、45年9月に京城駅の倉庫で偶然発見されたのである。日本の裁判関係者が引き揚げ時に捨てたのではといわれているが、映画では「命をかけて言葉を守ろうとした人たちがいた」という事実を、フィクションに乗せてドラマチックに再構成しているといえよう。

こうして困難な時代を乗り越えて、ついに47年、『朝鮮語大辞典』第1巻が出版された。その後も57年までに全6巻が作られ、チュ・シギョンから始まった朝鮮語辞書の夢は46年の時を経て「マルモイ」として形になったのである。この原稿は2012年、韓国の国家文化財に指定され、今でも国立ハングル博物館で目にすることができる。

「マルモイ」作りは、実際には日韓併合前後から戦時下の厳しい時代を経て戦後に達成した、半世紀近くにわたる歴史であるが、映画では時間を凝縮し、コンパクトにまとめることで、エッセンスがより伝わるように工夫されているのである。

https://this.kiji.is/656846166021080161?c=489071089890952289

*1:この人の演技がそれだけでないのは百も承知。

*2:脚本を書いた監督さんが同じですから、それはまあ当然かもしれません。