京畿道が「親日行跡案内板」を設置しようとして、子孫に反発される。

…いや、そらー当たり前でしょうが。その手の議論は、原理主義的に走っちゃうと、まずいことが多すぎるんですよ。

親日派」のレッテルの破壊力が大きすぎて、収拾がつかなくなることは目に見えています。朝鮮半島に生きたご先祖の行状を洗いざらいほじくり返されても「親日」のカケラもないと断言できる人間だけが、安全地帯から他人に石を投げることができます。

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このハンギョレさんの記事を読む限り、子孫の反発に直面しているにもかかわらず、京畿道庁は計画を取り下げる気はないみたいやけど、あれこれ揉めた末に、結局うやむやになってしまうんやないやろかな…。

韓国京畿道の「親日行跡案内板」設置に子孫が反発「我々の責任か」
登録:2021-02-26 02:21 修正:2021-02-26 08:41

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学生運動の舞台となった京畿道水原市の旧水原高等農林学校跡を抗日独立運動の地として伝える案内板=京畿道提供

 京畿道は3・1独立運動102周年を迎え、「親日記念物」161件への親日行跡案内板の設置を進めているが、親日とされた人物の子孫らが「子孫に何の責任があるのか」として反発していることが分かった。

 京畿道は25日、「2019年から昨年4月までの京畿道親日文化残滓調査研究で、親日記念物と確認された161件の記念碑と表徳碑に、親日行跡を記録した案内板を設置することにした」と明らかにした。道は、これらの記念碑の他に親日人物に関する銅像などが75件、建築物46件も存在することが調査から分かったと付け加えた。京畿道のある寺には『親日人名事典』に親日文学者として記録されたイ・グァンス(李光洙)の追悼碑があり、道内のある大学には、親日作曲家に分類されるホン・ナンパ(洪蘭坡)の胸像があることが分かった。

 これについて京畿道は、まず親日人物の記念碑と表徳碑に親日行跡案内板を立てることとし、該当する市・郡に設置可能かどうかを問い合わせたが、子孫たちの反発が懸念されるとの理由から「設置可能」との回答を得たのは16カ所にすぎなかった。実際に案内板設置が進められることが伝えられると、親日人物の子孫たちは「その人たちのせいで、なぜ子孫が苦しまねばならないのか」「子孫たちに何の責任があるのか」などとして京畿道に抗議した。

 京畿道文化政策チーム長のキム・ドヒョンさんは「案内板の設置は、後の世代が歴史的功罪を教育的にきちんと知ることができるようにするもの」とし「今年中に10カ所に試験的に設置し、さらに残りの親日記念物へと拡大する」と述べた

 一方、京畿道は、抗日独立運動遺跡120カ所には抗日独立遺跡案内板を立てることを決めた。先に京畿道は、親日作曲家イ・フンニョル(李興烈)が作曲した「京畿道の歌」を廃止し、道民の参加で新たな京畿道の歌を作り、この1月から使用している。

ホン・ヨンドク記者

http://www.hani.co.kr/arti/area/capital/984549.html
韓国語原文入力:2021-02-25 18:24
訳D.K

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/39247.html

ハンギョレさんもさー、このニュースの関連にこんな記事をリンクしといて、まさか「反発される理由がわからん」とは、言わんよなあ。

親日人名辞典」に名を載せている金英俊、なぜ国立墓地に埋葬されたのか
登録:2021-02-08 09:24 修正:2021-02-08 10:05
軍用機献納など「親日賦役」に貢献
麗順事件で左翼勢力に処刑される
2007年に国立墓地に移葬された事実
「歴史空間・友」の調査結果で明らかに
報勲処「死亡当時、警察に所属しており
警察墓地に埋葬された」と説明

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日本の植民地時代の朝鮮総督府の機関紙「毎日新報」1942年1月16日付に掲載された金英俊(金谷英俊)の愛国機資金献納についての記事//ハンギョレ新聞社

 「全羅南道麗水(ヨス)の金谷英俊氏が米英撃滅愛国機献納資金として5万3千ウォンを寄託し…」

 日帝強占期(日本の植民地時代)の朝鮮総督府機関紙「毎日新報」の1942年1月16日付紙面に掲載された記事の一部だ。「金谷英俊」は当時朝鮮の財閥級富豪だった金英俊(キム・ヨンジュン、1898~1948)が日本式に変えた名前だ。金英俊は、戦争協力のための朝鮮臨戦報国団の発起人として参加し、軍用機1機を献納するために10万1千ウォンを出すと公言した事実が明らかになり、民族問題研究所が発刊した「親日人名辞典」に名前が載った。

 金英俊は1921年から日本の神戸のゴム工場で働いた後、1926年に帰国し、釜山、麗水、益山(イクサン)、南原(ナムウォン)などで天一ゴム、興亜ゴム、麗水綿布、朝鮮ゴム靴販売など数社を設立した。事業が繁盛し、1940年に光州(クァンジュ)保護観察所の嘱託保護士として思想犯の教化の先頭に立ち、1941年に全羅南道会議員と麗水商工会の会頭(代表)などを務め、日帝の警察に電話仮設費として1万ウォンを献上した。賦役の代価として日本の紀元2600年奉祝展に招待されて記念状を受け、以後は戦争遂行に大金を献納して紺綬褒章を受けるなど、日帝の目に留まった。彼は日帝が経済を掌握した朝鮮で指折りの富豪として出世した。

 金英俊は解放後も既得権を守った。莫大な財力が土台になった。彼は右翼系列の大韓独立促成国民会の麗水郡支部長や韓国民主党麗水郡支部長を務め、麗水商工会議所会長、全南商工会議所会長、朝鮮商工会議所副会長などへと歩幅を広げた。

 しかし、「麗水・順天事件」(1948年)が勃発し、金英俊の運命は急反転した。当時ソウルにいた彼は1948年10月18日、長兄の金ジェジュンの誕生日を迎えに麗水に来たが、左翼勢力に逮捕された。それから5日後の10月23日、麗水保安署で50歳の年齢で処刑された。この日逮捕された120人のうち処刑されたのは、警察官2人と金英俊を含めた民間人10人の計12人だった。

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大田の顕忠院警察墓地に埋葬された愛国団員の金英俊の墓=歴史空間・友提供//ハンギョレ新聞社

 死亡後は麗水市屯徳洞(トゥンドクドン)の墓地に埋葬された。家族の大半は日本に移住した。1969年、金英俊は日帝時代に麗水の嵋坪小学校に学校敷地を寄付した事により、麗水商工会議所の推薦を受け麗水市から市民賞を受けた。

 そして死去から60年後の2007年8月21日、大田顕忠院の警察墓地(警察2-511-2384)に愛国団員として埋葬された。

 うわさだけが流れていた金英俊の国立墓地移葬は、今月2日、麗順抗争研究会の「歴史空間・友」によって事実と確認された。同会の代表である現代史研究家のチュ・チョルヒ博士は「まさかと思ったが当惑した。死亡していなかったらサムスン級の財閥が麗水から出たはずだと話す人がいるほど、彼の行跡ははっきりしていた。親日富豪だった金英俊が国立墓地、それも警察墓地に愛国団員として埋葬されたとは衝撃的だ」と語った。

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大田の顕忠院の警察墓地に埋葬された愛国団員の金英俊の墓の裏側=歴史空間・友提供//ハンギョレ新聞社

 麗順事件の右翼被害者のうち愛国団員に分類され警察墓地に埋葬された人物は、金英俊の他にもユ・ヨンチェ(48年11月4日死亡)、ソ・ビョングァン(48年10月21日死亡)、キム・ヨンジュ(48年10月23日死亡)など相当数が確認された。

 「歴史空間・友」による調査の結果、警察の身分の右翼関係者(愛国団員・郷防団員など)、愛国青年団員、大韓青年団員などで顕忠院に埋葬された人は1303人だった。このうち、金英俊、ユ・ヨンチェら164人は1950年6月25日の朝鮮戦争勃発前に死亡した人々だ。「歴史空間・友」は「報勲処は民間人の埋葬根拠として戦時勤労動員法、警察援護法などを挙げている。しかし墓碑に戦死と表記された金英俊は当時50歳で、警察ではなく、戦闘に参加したこともない」とし「朝鮮戦争以前に死亡した愛国団体員ら164人の埋葬経緯を明らかにしなければならない」と求めた。

 報勲処は「金英俊は1961年に国家有功者(戦没軍警)に決定された埋葬対象者で、死亡当時の所属(警察)によって警察墓地に埋葬された」とし「警察援護法(51年)と戦時勤労動員法(53年)には愛国団体員として警察と共に戦闘や訓練、または戦闘に準ずる行為で死亡または負傷した場合、援護するという条項がある」と明らかにした。

アン・グァノク)、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/area/honam/982246.html
韓国語原文入力:2021-02-08 07:37
訳C.M

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/39089.html

遺骨のDNA鑑定によって判明する戦没者の身元

私はこっち方面の話には疎いのでよく知らなかったのですが、遺族とのDNA型照合で、こんな風に身元が判明するんですね。

遺骨DNA型照合、全地域で 遺品ない戦没者対象―厚労省
2021年02月05日16時22分

 厚生労働省は5日、遺品がない戦没者遺骨の身元特定に向け、遺族とのDNA型照合作業を全地域の遺骨を対象に進めると発表した。従来は沖縄県硫黄島(東京都小笠原村)、太平洋中部のタラワ環礁(キリバス領)に限っていた。10月をめどに遺族側からの連絡を受け付ける。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021020501009

兄ちゃん、お帰り 80年ぶりの“再会”に涙 遺品なき遺骨はいま
毎日新聞 2021/2/26 20:38(最終更新 2/26 20:45) 1117文字

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野村正敏さんの出征前に撮影された家族写真。右から3人目が正敏さん、左から2人目が貞之さん=野村貞之さん提供

 兄ちゃん、お帰り――。日本から5500キロ以上離れた太平洋戦争の激戦地・タラワ環礁(キリバス)で亡くなった旧海軍下士官、野村正敏さんの遺骨が26日、徴兵以来80年ぶりに家族の元に戻った。「つらかったろう、寂しかったろう」。8歳上の兄を慕って生きてきた弟貞之さん(92)=長崎市田上3=は遺骨を抱きしめ、待ちわびた対面に涙を流した。

 「寂しかったろうね、おかえりなさい」。26日午後、自宅を訪れた長崎県の担当者から遺骨を受け取った貞之さんはそう語りかけた。正敏さんと両親の位牌(いはい)が並んだ祭壇に遺骨を置いて約1分。再び言葉を継いだ。「兄ちゃん、つらかったろうな。僕の面倒を見てくれてありがとうね」

 貞之さんらは幼い頃に父を亡くし、早くから一家を支えたのが小学校を卒業して働きに出た正敏さんだった。「勉強とけんかは一番になれ」。正敏さんはそう言って貞之さんを厳しくしつけた。しかし、貞之さんが小学校に入学する際は僅かな給金をためてランドセルを買ってくれた。

 造船所で働いていた正敏さんが徴兵されたのは1941年。海軍佐世保鎮守府長崎県佐世保市)の陸上戦闘部隊だった。「兄ちゃん、死んだらだめぞ。帰ってきてね」。鎮守府の門前で貞之さんが叫ぶと正敏さんは手を上げて応えた。母には「貞之だけは学校に行かせてくれよ」と言い残した。これが別れだった。

 43年11月25日、タラワ環礁の激戦で旧日本軍は全滅。約4200人が戦死した。しかし、貞之さんらの元に届けられたのは「南太平洋方面で戦死」と書かれた通知文と軍服姿の写真が入った白木の箱のみ。どこで亡くなったのかも分からず、貞之さんは兄の死を受け入れられなかった。

 長崎市に原爆が落とされた45年8月9日、16歳だった貞之さんは爆心地から3・2キロの学徒動員先で被爆。大きなけがはなく家族も無事だったが、長崎の街は焦土と化した。戦後は30代で空調メンテナンス会社を設立。「人に負けるな、耐えろ」。つらい営業も兄の言葉を支えに乗り越えた。片時も正敏さんを忘れたことはなかった。

 厚生労働省から「タラワ環礁の遺骨の中に正敏さんが含まれている可能性がある」と電話が入ったのは2019年9月。検体キットで口内の粘膜を採取して送ったところ、20年9月、DNA鑑定で正敏さんの遺骨と判明した。

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返還された兄正敏さんの遺骨を抱え、涙ぐむ野村貞之さん=長崎市で2021年2月26日午後2時50分、徳野仁子撮影

 「遺品や遺骨のかけらでもいいからないかと思い続けてきた。ようやくだ」。万感の思いで遺骨を見つめる貞之さん。しかし、今も身元が分からない幾多の遺骨がある現実に表情を曇らせる。「いまだに相当の遺骨が現地に埋まっている。一人でも多く身内の元に返ってほしい」。そう語り、多くの遺族の無念に思いを致した。【今野悠貴】

https://mainichi.jp/articles/20210226/k00/00m/030/295000c

映画「ブラザーフッド」で兄の遺骨の身元が判明した決め手は、身につけていた弟の万年筆でした。あの印象が私の中では非常に強いのですが、リアリティを追求した作品でしたから、当時であれば、その描写は妥当であったと思います。

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チック・コリアと小曽根真の話

いえ、私には音楽の才も知識も全くないのですが、ちょいちょい聴く機会があるせいで、このお二人の名前だけは知ってたんですよ。

「Spain」は大好きな曲です。チック・コリアさんのご冥福をお祈りします。

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若い才能も相次ぎ発掘 ジャズピアノの最高峰チック・コリアさんの知られざる素顔
2021.2.27 10:00

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お互いをたたえるチック・コリアさん(右)と小曽根真さん=平成30年10月25日、大阪市住友生命いずみホール(撮影:樋川智昭/写真提供:住友生命いずみホール

 今月9日、79歳で亡くなった米ジャズピアノ奏者で作曲家のチック・コリアさんは、1960年代終わりから現在に至るまで最高峰のジャズ音楽家の一人だった。電気楽器を駆使するバンドも率いるなど、幅広い音楽を創造。コロナ禍の中でもオンラインでジャズ講座を始めるなど、精力的に活動していた。親日家で、ピアノ奏者の小曽根真(おぞね・まこと)さん(59)らと親交が深かった。日本の関係者が、チックさんの素顔を語る。  
(文化部 石井健)

傘寿と還暦

 チックさんはピアノ奏者にとどまらず、「リターン・トゥ・フォーエヴァー」や「チック・コリア・エレクトリック・バンド」など電気楽器を駆使するバンドのリーダーとして先端の音楽も生み出した。「ラ・フィエスタ」「スペイン」などの名曲を書いた作曲家でもあった。また、多くの後進を世に出した。日本ではピアノ奏者の小曽根さん、上原ひろみさん(41)がチックさんを師と仰ぎ、共演もしている。

 小曽根さんは、「今年、一緒に演奏旅行をするはずでした」と絶句する。チックさんの傘寿と小曽根さんの還暦を祝って、秋にピアノ2台による公演旅行を計画していた。

 「平成28年と30年に2人で公演して、『すごく楽しかった。また、やりたい』とチックが言ってくれましてね。じゃあ、次は2人の60歳と80歳の年にしようと決めていたんです」

 昨年10月、チックさんのジャズ講座にゲスト参加し、オンラインで語り合ったのが言葉を交わした最後になった。その後、出したメールに返事はなかった。「急ぎの案件じゃなかったので気にしなかったのですが、今思えば、すでに体調を崩していたのかもしれませんね」と思い返す。

「君はどう思うんだ?」

 小曽根さんがチックさんに初めて会ったのは1982年。米バークリー音楽大学の学生のときだった。学生とチックさんが出演する公演が開かれた。開演前、会場で小曽根さんが腕慣らしをしていたらチックさんが突然現れ、「そのピアノ、どう?」と質問された。「ご自身で確認しますか?」と席を譲ろうとしたら「いや、君はどう思うんだ?」と重ねて聞いてきた。

 「チックは自分で考え、決めることを大事にしていました。ジャズの即興演奏って、指の赴くままに演奏する演奏家もいますが、チックは常に自分と向き合い考えて音を選んでいました。言葉を慎重に選ぶ会話と同じ。だから、チックの即興演奏は常に確信に満ちているんです」

 レコードデビューが決まっていた小曽根さんは、初対面のチックさんに悩みを打ち明けた。「どうすれば個性が出せますか?」。「簡単なことですよ」とチックさんは答えた。「作曲をしなさい」。2年後に世に出たデビューアルバム「OZONE」は、小曽根さん自身の筆による曲で占められた。

 以来、40年近い親交だ。

 「僕が立ち止まって考えなくてはいけないとき、なぜかチックは必ず公演で日本に来てくれていた。会って、食事して、話して、たくさんのことを教わりました。『マコト、男になれ!』と叱られて、夫婦の大変な時期を乗り越えたこともあります。僕にとってチックは、師匠というよりメンター(導く人)。あるいは、親のような存在かな」

天才少女

 平成28年の演奏旅行に先立つ8年7月、小曽根さんは、東京都内のチックさんの公演で、2台のピアノで2曲だけ一緒に演奏したことがある。観客の前でのデュエットは、これが初めてだった。

 この公演のリハーサルの休憩時間、小曽根さんはチックさんが日本人の少女と一緒にピアノを弾いているのを目撃した。「とても上手。すごい子がいるもんだ」と驚いた。

 少女は、当時17歳の上原さんだった。小曽根さん同様、日本を代表するジャズピアノ奏者だが、デビューはこの7年も先のこと。小曽根さんは、少女がなぜ現れたのか分からなかった。

 「上原さんは、すでにチックさんと面識があったので、あいさつをしにいったんですよ」と振り返るのは、このとき上原さんに同行した内藤正昭さん(71)だ。当時ヤマハの社員で、海外の演奏家に楽器をPRする業務に当たっていた。

 内藤さんが、上原さんと初めて会ったときのチックさんを思い出す。

もう一つの出会い

 上原さんは財団法人ヤマハ音楽振興会が運営する音楽教室でピアノを学び、すでに大変な力量を身につけていた。振興会の幹部は、その演奏をチックさんに聴いてもらおうと考えた。そこで、内藤さんが2人の顔合わせを手配した。

 場所は、東京都内のヤマハの施設。内藤さんは、チックさんに聴かせるのならと、そこにあるピアノの調律を小沼則仁(おぬま・のりひと)さんに頼んだ。小沼さんは、チックさんが来日すると必ず指名したピアノの調律師。後に上原さんも、ステージで小沼さんを紹介するほどその腕を信頼した。25年に65歳で亡くなるが、闘病中の枕元にはチックさん、上原さんと3人で撮った写真を飾っていたという。

 内藤さんの記憶では、チックさんはソファに座っていたが、上原さんがピアノを弾き始めると腰を浮かし、立ち上がり、最後は隣に座って一緒に演奏した。このとき、内藤さんが撮った2人の写真が残っている。

 関係者によると、チックさんは振興会の幹部に「この子には余計なことを教えずに、素直に育てたほうがいい。自分も“キッチン・ミュージック”(台所で母親が口ずさむような音楽)で育ったから」と育成方針まで助言したという。

 そのうえ、上原さんを翌日の自分の公演に招いた。そしてなんと、この無名の女子高生を舞台袖から登場させ、観客の前で一緒にピアノを弾いて聴かせた。そのようすは映像で残っている。このとき16歳だった上原さんが、東京の日本武道館という晴れ舞台でチックさんとピアノ2台の公演を大成功させるのは、その13年後だ。

バトンリレー

 チックさんが世に紹介した若い才能は、上原さんだけではない。世界中で若い演奏家に会い、ときには自分の舞台にあげて観客に紹介してきた。

 小曽根さんは、チックさんから10歳ぐらいの日本人の少年ドラム奏者の動画を見せられたことがある。「すごいだろ、この子。今度、日本に行ったらセッションしようと思うんだ」と楽しそうに話したという。

 「チック自身も多くの先達から演奏する機会をもらい、世界に出ていく切符を手にした」と小曽根さん。

 チックさんは、ジャズの「帝王」と呼ばれたトランペット奏者、マイルス・デイビスさん(1926~91年)のバンドに60年代の終わりに参加したことが頭角を現す大きなきっかけとなった。

 「チックは、マイルスから託されたバトンを多くの若い演奏家に渡し続けました。だから、世界中に彼を敬愛してやまない音楽家が世代を超えて大勢いるのです。僕もチックから受け取ったバトンを次の世代に渡さなくてはならない」

 内藤さんも「ヤマハの楽器をPRするため大勢の演奏家と知り合ったが、いつの時代も若い世代がチックさんを敬愛していた」と振り返る。

 チックさんは亡くなったが、チックさんから世界中の若い演奏家に渡されたバトンは、いつまでもリレーされるのだ。

https://www.sankei.com/premium/news/210227/prm2102270006-n1.html

2.26事件から85年

以前にも2.26事件のことを記事にした記憶があったので振り返ってみたら、5年前のことでした。

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関係者の直接の遺族がなお存命で、公文書の公開も始まったところ。85年前の事件はまだ「終わっていない」と言えます。

2・26事件から85年 決起した青年将校、遺族ら参列して追悼
毎日新聞 2021/2/27 07:00(最終更新 2/27 07:00) 974文字

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処刑された青年将校らの墓に手を合わせる今泉章利さん。父の義道さんは事件の中心となった青年将校に突然決起を告げられ、部下の兵を守るためにやむなく参加したという=東京都港区元麻布1の賢崇寺で2021年2月26日、栗原俊雄撮影

 日本近現代史上最大のクーデター未遂となった「2・26事件」から85年となる26日、東京都内の2カ所で追悼式と法要が営まれ、決起に参加した青年将校らの遺族が参列した。殺害された人たちや死刑となった将校らの冥福を祈った。

 午前10時、東京・渋谷税務署脇にある慰霊像の前で追悼式が開かれ、今泉章利さん(71)らが参列し花や線香を手向けた。像は1965年、青年将校らの遺族団体「仏心会」が建立し毎年追悼式を行ってきた。周辺はかつて陸軍刑務所で、クーデターに失敗した将校らはそこで銃殺された。

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雪の中、東京・半蔵門前で市民を検問する反乱軍兵士。「東京が全滅する戦争だ」などの流言があった=1936年2月26日撮影

 今泉さんの父義道さん(95年没)は事件当時少尉。決起に加わり禁錮4年の判決を受けた。半世紀近く慰霊に関わってきた今泉さんはこの日も線香を手向け、「当時は政治や経済、社会などさまざまな矛盾があった。若い人にはそうした当時の背景を知ってほしい」と話した。

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警視庁中庭に集結した反乱軍兵士たち=1936年2月26日撮影

 午後には、事件で亡くなった人たちの墓がある東京都港区の賢崇寺で法要が開かれた。例年は遺族以外の一般の参列も可能だったが、今年は新型コロナウイルスの影響で関係者のみとなった。処刑された香田清貞大尉のおいで、仏心会代表理事の香田忠維(ただつな)さん(76)は「事件は多くの小説や映画などで扱われてきたが、誤解も多い」と指摘。事件の軍法会議の記録は長く非公開だったが、2017年に国立公文書館(東京都千代田区)で一般公開が始まったこともあって「1次資料で歴史的に評価してほしい」と話した。

 また、同じく処刑された安田優(ゆたか)少尉は熊本・天草出身で当時のエリートコースだった陸軍士官学校に進み、将来を期待されていた。弟の善三郎さん(95)は「優しくて自慢の兄でした」と振り返る。事件後、両親は「親を困らせたことのない孝行息子だったのに」と驚き、嘆いたという。安田さんは毎年参列してきたが、今年は体調がすぐれず見送った。「事件で亡くなった人、ご遺族には申し訳ありません。今年は自宅でご冥福をお祈りしました」と話した。

 事件は36年2月26日未明、青年将校らが「昭和維新」を目指して決起。下士官や兵およそ1500人を率いて閣僚や陸軍高官、護衛の警官らを殺傷し、国会議事堂や首相官邸などを一時占拠したが29日に鎮圧された。青年将校らは上告なし、弁護人なしの非公開の特設軍法会議で審理され、19人が処刑された。【栗原俊雄】

https://mainichi.jp/articles/20210226/k00/00m/040/365000c

「全社員に英語禁止令」というニュース

いやしかし実際、実用面をクリアしてそういう方向に進んでもらえれば、語学のまったくできない私なんかは明らかな受益者なわけで、歓迎せずにはおれませんよ。

ロゼッタが全社員に英語禁止令
ロゼッタ 2021年3月1日 15時16分

株式会社Matrix(本社:東京都新宿区 代表取締役:五石 順一)はVR(仮想空間、パソコン、スマホ上のリモートで外国語が話せなくても自由に会話できる「言語フリー・スペース」の実験に成功した。それを受けて同社が属するロゼッタグループでは、3月1日付で全社全社員に対して英語を話すことを全面禁止する「英語禁止令」が発令された。

勤務中に日本人社員が英語を話すこと、外国人社員が日本語を話すことを一斉に禁止し、会話するときにはWEBスマホVR上の「言語フリー・スペース」で行う。以下は「英語禁止令」の実際の文面(原文ママ)。

英語禁止令(外国語禁止令)
感無量です。
創業から17年、ついにこの日がやって来ました。
今ここに高らかに宣言します。
我々はついに言語的ハンディの呪縛から解放されました。
「言語フリー」の世界が実現しました。
長年に渡って人類を分断し続けた言語の壁は、今ここに崩壊したのです。

3月1日から、グループ全社全部門において、仕事中で、
内外の(社内だけではなく外部の接客・商談であっても)外国人と話をする時に
日本人社員が英語および中国語を話すことを禁止します。
外国人社員が日本語を話すことも同様に禁止します。

つまりみんな母国語だけ使って話をするのです。
英語の会議で半分くらいしか理解できなかったり、
英語だけ話せて仕事ができない人に担当させたり、
仕事ができる人が英語を話せないだけで外されたり、
一見日本語ペラペラの中国人が全然分かってなかったり、
日本語が話せないエンジニアを採用できなかったり、
語学ができるがゆえに本職じゃない翻訳をさせられたり、
長年続いた暗黒時代は終わりました。

外国人との会話は、WEB上の言語フリー部屋で行ってください。
VRでなくてもいいです。PCやスマホでもワンクリックで入れます。
英語だろうが中国語だろうが日本語だろうが、本人の母国語だけで話すことができます。

今こそ目が覚める時です。
人種や性別とまったく同じように、英会話力など、本業の能力とは何の関係もありません。
英語ができる無能な人が重宝され、本当に実力のある人々が抑圧される暗黒時代はもう終わったのです。
英語ができないだけで不遇な目に会っていた、優秀で素晴らしき人達。あなた方はついについに、檻から解放されたのです。自由に、羽ばたいてください。思う存分、きらめいてください。
また、たまたま語学ができる人に、本業と関係ない翻訳仕事を依頼するのも無しです。

*本当にネイティブ並みに話せる人もいるにはいるので、代表承認を得ることで外国語を話すことを例外的に許可します。該当者は外国語使用許可の申請を行ってください。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000077.000006279.html

まあ、私はこの会社とは無関係ですので、どんな風に事態が進むのか、興味を持って眺めています。

www.fnn.jp

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2020年2月末時点でロゼッタグループの全社員数は261名だが、英語禁止令はどう受け止められているのだろうか?また翻訳精度はどのぐらい高いのか?
担当者に聞いてみた。

社員の多くは狂喜乱舞で喜んでいます

――「言語フリー」は精度など会話にまったく支障がない?

もちろんタイムラグはあるし、精度も完璧ではありません。
しかし中途半端な語学力でやる方が頻繁にミスコミュニケーションが起こり、はるかに支障があるので、言語フリーによって、逆に本当の相互理解になり、圧倒的な生産性向上につながります。

――「言語フリー」は外国語が母国語で表示されるけど、音声化はしない?

音声出力の分だけタイムラグが増えるだけなので、今のところは必要性がないので音声化は考えてません。
やろうと思えばすぐできます。

――禁止令で、日本人社員・外国人社員の反応は?

多くは狂喜乱舞で喜んでいます。
元々外国語に自信があった人達は黙ってますが、内心面白くないと思っていると想像します。

――逆に、英会話を主とする会社についてはどう思う?

言語フリーのテクノロジーがない状態では、普通にあり得る選択の一つだったと思います。国際ビジネスの公用語は英語ですから、グローバルを志向する会社が国際公用語を社内公用語にするのは当然のことと思います。

――隠れて外国語を使ったのがバレたらどんな罰がある?

処罰はありません。
言語フリー部屋を使わないで、外国人とのコミュニケーションができず、仕事の生産が落ち、時代に取り残されていくのが実質的に十分な罰になるからです。

現在、MATRIX社は「言語フリー」スペースを一般に提供する準備を進めており、サービス開始は5月ごろを予定しているという。2人で10分以内なら無料で、それ以上の場合は最低月1万円からの有料サブスクリプションになるそうだ。

翻訳機能が進化すれば、こういう考え方もありだと思えるが、世の中がグローバル化する中で今後はどちらに進んでいくのだろうか。

https://www.fnn.jp/articles/-/152232

大阪と九州を結ぶ九州新幹線10年

九州、特に熊本・鹿児島方面に行くときに九州新幹線はしばしば乗ってきました。いやそれはもう、前線開通前と後では、大阪からの距離感が全く違いますよ。時短効果もさることながら、新大阪駅から熊本駅鹿児島中央駅に直行できる「みずほ」「さくら」の存在、その直通効果はものすごく大きいと思います。

いっぽう、飛行機も使いますけど、これは空港へのアプローチの時間を込みにしての所要時間や乗り換えの手間を考えると、新幹線といい勝負なんですね。飛行機の優位性が高まる新大阪以遠の地域を切り離し、新幹線でも乗り換えを必要とすることに割り切った「新大阪発着」という九州新幹線の設定が絶妙なんだと思います。

九州新幹線10年、航空機と二分 熊本ー大阪、時短効果で利用伸ばす
熊本日日新聞 | 03月01日 07:50

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多くの鉄道ファンに見送られて出発する新大阪行きの一番列車「さくら」(手前)=2011年3月12日、熊本市西区のJR熊本駅

 九州新幹線鹿児島ルート(博多-鹿児島中央)が全線開業して12日で10年を迎える。同時に新大阪までの山陽新幹線との相互乗り入れもスタート。それによる時間短縮効果もあって、熊本と大阪の間を移動する際の新幹線利用者が増え、航空機の利用割合とほぼきっ抗する状況になっていることが熊本日日新聞の分析で分かった。

 国土交通省の旅客地域流動調査や九州運輸局の統計データを基に、熊本と大阪をそれぞれ発着地として移動した人の数などを分析した。

 それによると、JR(新幹線と在来線の合算)と航空機を合わせた2010年度の輸送人員は72万人だったのが、データが最も新しい18年度には99万2千人と37・7%増加。移動時間の短縮効果や移動手段の多様化で往来する人の“パイ”が拡大した格好だ。

 移動手段の比率をみると、10年度は航空機が73・3%を占めていたのに対し、18年度は50・9%に低下。その分、新幹線利用の割合が増え、両地域の移動において航空機と二分する状態になっている。ただ“パイ”の拡大で、航空機の輸送人員の落ち込みは10年度に比べて2万3千人程度にとどまっている。

 また大阪以外の主要都市間のJRの輸送人員(18年度)は、熊本-広島が10年度比2・1倍の21万6千人、熊本-岡山が同2・2倍の9万7千人と、いずれも大きく伸びた。

 熊本-福岡も584万人と1・4倍に拡大した。一方、熊本-福岡の高速バスの輸送人員をみると、18年度は149万人で10年度比18・4%増。全線開業以降もおおむね年間140万~150万人を維持しており、すみ分けが図られている印象だ。(中原功一朗)

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◆直通運転 効果大きく

 この10年間で県内から大阪以西の都市間移動の際に存在感を増した新幹線。県内の関係者は九州新幹線が九州域内だけを行き来する“ローカル新幹線”ではなく、新大阪まで直通運転をするようになった効果が大きかったと指摘する。

 「熊本から乗り換えなしに関西や中国地方に新幹線で行ける。県民に心理的な近さを感じさせる効果があった」。交通政策に詳しい坂本正・熊本学園大シニア客員教授(73)は分析する。

 JR西日本大阪市)によると、熊本-大阪のJR利用のほぼ100%が新幹線。熊本-新大阪の所要時間は最速2時間57分と全線開業前に比べて1時間短縮しており、同区間について「全線開業直後、乗客数は開業前の3割増になり、その後も堅調に推移している」と話す。

 新大阪への直通運転は県内経済界有志の呼び掛けがきっかけだった。当初は博多での全面乗り換えが計画されていたが、利便性の向上を目指して誘致運動を展開。国会議員らを巻き込んでJR側に東京や大阪への乗り入れを働き掛けた。

 当時、発起人の一人として奔走した熊本第一信用金庫の森本孝会長(86)は「直通運転の実現で福岡はもちろん、大阪が近くなり、観光客が増加。新幹線が日本の地図を小さくした」。前熊本商工会議所会頭の田川憲生さん(73)=ホテル日航熊本最高顧問=も「九州新幹線が博多止まりだったら、従来の特急とあまり変わらなかった」と指摘。新大阪までの直通運転で「西日本と九州を結ぶ大動脈が出来上がった」と強調する。(中原功一朗)

https://kumanichi.com/news/id129199

「天安艦」艦長の除隊

2010に沈没した「天安」艦は、乗組員46名が死亡し、生存して帰還したのは58名でした。政争の具となることも多かった天安艦沈没ですが、多くの部下を失った中、艦長として生き残ったこの人物の心中は、想像を絶するものであろうと想像します。

blue-black-osaka.hatenablog.com

‘천안함 함장’ 최원일, 28일 전역…대령 ‘명예 진급’
신규진 기자 입력 2021-02-28 21:51 수정 2021-02-28 21:55

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지난 2010년 3월 26일 ‘천안함 폭침’ 당시 함장이었던 최원일 해군 중령(왼쪽)이 2018년 국립대전현충원에서 엄수된 제3회 서해수호의 날 기념식 뒤 천안함 46용사 묘역을 찾아 참배를 하고 있다. 2018.3.23/뉴스1 © News1

천안함 폭침 당시 함장이던 최원일 해군 대령(해사 45기)이 군 생활에 마침표를 찍었다.

28일 해군에 따르면 이날 최 대령은 중령에서 대령으로 명예 진급해 전역했다. 그는 2010년 3월 26일 북한 잠수정의 어뢰에 피격된 천안함에서 생존한 장병 58명 중 1명이다. 폭침으로 승조원 46명을 잃은 최 대령은 긴 시간을 죄책감 속에 살아온 것으로 알려졌다. 폭침 이후 그는 충남 계룡대의 해군 역사기록단 연구위원, 해군 교육사령부 기준교리처장, 해군 작전사령부 종합전술훈련 대대장 등을 맡았다. 전역 전까진 한미연합사령부에서 근무했다.

그는 생존 장병들과 1년에 두 차례 정기모임을 하며 서로의 아픔을 위로해왔다고 한다. 전역을 앞두고는 천안함 전사자가 안장된 현충원 묘역을 생존 전우들과 함께 찾아 추모한 것으로 알려졌다.

최 대령의 전역 소식이 알려지면서 야권에선 비판의 목소리가 이어졌다. 국민의힘 박기녕 부대변인은 28일 논평에서 “최 대령과 천안함 용사 모두를 기억하겠다”며 “‘불미스러운 충돌’, ‘우발적 사건’이라며 천안함 피격을 오도하는 문재인 정권의 행태는 진실을 아는 국민들 마음을 더욱 아프게한다”고 했다.

국민의힘 안철수 대표도 이날 입장문에서 “문 정부는 천안함 폭침 주범인 북한에 비굴하고 기회주의적인 태도를 보임으로써 유가족과 생존 장병의 마음에 깊은 상처를 줬다”며 “참혹한 주검으로 돌아온 용사들의 죽음을 홀대하는 나라가 과연 제대로 된 나라인가”라고 했다.

신규진 기자 newjin@donga.com

https://www.donga.com/news/Politics/article/all/20210228/105655426/1

高陽・金井窟の慰霊事業をめぐるフォローアップ・2:取り組む人々

金井窟の慰霊事業をめぐって、今なお事態の解決を阻む「葛藤」について、簡単に振り返りました。

blue-black-osaka.hatenablog.com

私としては、そうであったとしても、最終的には慰霊施設は建設されねばならないし、されることになるだろう、と考えています。この虐殺事件が過去から掘り起こされ、周知のものとなった以上、これを隠蔽・抑圧して済ませることは難しいと考えるからです。

もちろん、「何をどこまで」という問題は政治的なものとしてあります。なので、政治の場では今後も議論になるでしょう。ただ、無視できるわけではない。

www.nocutnews.co.kr

とりわけ、金井窟をはじめとする朝鮮戦争時の民間人虐殺事件については、多くの事例の実態が既に明らかにされています。政府委員会でその真相究明に尽力し、その後も多くの著書を刊行しているシンギチョル・金井窟人権平和財団研究所長の存在も、無視はできないでしょう。

gjpeace.or.kr

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www.kyobobook.co.kr

문화
[인터뷰] ‘전쟁의 그늘’ 펴낸 신기철 소장··· 민간인 학살을 승전으로 왜곡한 역사
권종술 기자
발행 2020-12-15 10:18:18
수정 2020-12-15 10:18:18

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고양 일산서구 금정굴에서 민간인 집단 학살 사건에 대해 증언하고 있는 신기철 금정굴인권평화재단 소장ⓒ권종술 기자

“지금 전국의 한국전쟁 기념시설을 찾아서 조사를 진행하고 있다. 전국 곳곳에서 민간인 학살을 자행한 범죄의 현장에 승전비를 세웠다. 이곳 아산의 민간인 학살도 가해자들에겐 여전히 공적으로 되어 있다. 역사를 다시 써야 한다. 민간 차원에서도 역사를 다시 재구성해 평가하기 위해 적극적으로 나서야 하는 시기다.”

지난 2019년 5월, 충남 아산서 열린 민간인 학살 유골 발굴 개토제 현장에서 만난 신기철 금정굴인권평화재단 연구소장은 전쟁 승리로 기록된 역사의 뒷면을 파헤치고 있었다. 신 소장은 경찰과 국군에 의한 민간인 학살이 국방부에서 발간한 ‘한국전쟁사’와 전국 각지에 세워진 승전비와 기념관엔 승리한 전투로 왜곡된 채 기록돼 있다면서 이를 바로 잡으려고 노력해왔다. 그리고 그 성과를 ‘전쟁의 그늘’이라는 책으로 출간했다.

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책 ‘전쟁의 그늘’ⓒ인권평화연구소

신 소장은 어린 시절부터 성장해 온, 고향이나 마찬가지인 고양에서 벌어진 금정굴 사건을 접한 이후 사건 진상규명과 함께 전국의 민간인 학살 사건의 진실을 밝히기 위해 일해 왔다. 그는 지난 2004년 ‘의문사진상규명위원회’에서 활동했고, 2006년부터 2010년까지는 ‘진실화해위원회’에서 조사위원으로 일했다. 진실화해위원회 활동을 마친 지금도 금정굴 민간인 학살 진상규명과 한국전쟁 당시 민간인 학살을 조사해 기록으로 남기는 일을 꾸준히 이어오고 있다.

그는 그동안 ‘아무도 모르는 누구나 아는 죽음’, ‘멈춘 시간 1950’, ‘전쟁범죄’, 국민은 적이 아니다’, ‘진실, 국가범죄를 말한다’, ‘한국전쟁과 버림받은 인권’, ‘황금무덤 금정굴 거짓에 맞서다’, ‘한국전쟁, 전장의 기억과 목소리’ 등 10권 넘는 책을 출간하며 한국전쟁 과정에서 학살당한 민간인들의 진실을 다뤄왔다. 이 중 한국전쟁 전후로 학살당한 민간인 1만4천343명의 명단을 수록한 책 ‘한국전쟁과 버림받은 인권’은 민족문제연구소가 시상하는 제12회 임종국상 학술부문에 선정되기도 했다.

10권 넘는 책을 쓰며 추적해 온
민간인 학살의 진실

그가 이렇게 10권이 넘는 책을 쓰면서까지 한국전쟁, 그 가운데서도 민간인 학살의 진실을 파헤치게 계기는 무엇일까?

“진실화해위원회를 포함해서 대부분의 과거사 관련 위원회의 활동 기록은 그 기관의 활동이 멈추면 모두 국가기록원으로 사라지게 된다. 일제 하 강제동원 조사나 친일파 조사, 의문사 조사, 친일재산 환수 조사 등의 기록은 그때뿐이었다. 그리고는 언제 그런 일이 있었냐는 듯이 다시 문제가 제기되곤 한다. 그동안 무엇을 했길래 다시 원점에서 문제가 제기되는 것일까? 지금 가동되고 있는 사회적참사조사위원회나 5.18진상조사위원회에서도 여전히 같은 문제가 제기되는 것을 보면서 저는 제가 몸 담았던 한국전쟁 민간인 학살 조사부터 평가와 반성, 성과의 확대 작업이 필요함을 느낀다. 저는 개별 피해를 넘어 지역과 더 나아가 전국적 사건의 해석, 세계적 공통점 비교 분석까지 계속해 나갈 생각이었고, 역사적 진실에 대한 평가도 중대한 목표였다.”

이런 목표를 가지고 오랜 기간 민간인 학살을 추적해온 그였지만 ‘전쟁의 그늘’을 출간하는 건 쉽지 않은 일이었다. 가려진 민간인 학살의 진실을 밝혀내기도 어렵지만, 승전으로 기록된 역사를 뒤집어 그것이 학살이었음을 밝혀내는 일은 더더욱 어렵다. 국가보안법과 분단체제가 여전히 위력을 발휘하는 현실에선 ‘이적(利敵)’이란 공격이 언제 날아들지 모를 위태로운 연구가 될 수밖에 없기 때문이다.

적이 될까봐…….
청년은 물론 어린이, 여성, 노인까지 학살

이런 어려움 속에서도 신 소장이 연구를 진행하고, 책으로 출간한 이유는 두 가지다. 첫 번째는 가해자인 경찰과 국군이 과연 어떤 마음으로 그런 범죄를 저질렀을까 하는 의문이었다. 연구를 하며 당시 학살이 적을 제거하는 전투행위처럼 벌어졌다는 사실을 깨닫게 됐다.

“고양 금정굴 사건의 경우도 전쟁 시기 발생한 전투의 하나였다는 주장이 있었다. 저는 ‘1950년 10월이면 전선이 북쪽으로 훨씬 넘어가는데 뭔 헛소리야’라고 주장했고, 민간인 학살을 부수적 피해의 하나로 돌리려는 책임 회피 수단이라고 생각했다. 그런데 지역을 확대하면서 보니 제 생각이 잘못되었다는 것을 알게 되었다. 1950년 7월 집중되었던 국민보도연맹 사건은 남은 청년들이 적이 될까봐 우려해서 저지른 대량 학살이었고, 1.4후퇴 시에는 여기서 더 나아가 어린이, 여성, 노인들을 집중적으로 학살한 사건들이 발견되었다. 가해자들은 권력 투쟁에서 승리하기 위해 미래의 적을 제거하는 행위로 인식했던 것이다.”

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2018년 8월 진행된 충남 아산시 배방면 설화산 민간인 학살 피해자 발굴 현장 모습. 흙더미속에서 세상밖으로 나오는 민간인피학살자.ⓒ구자환 기자

또, 정확한 학살자 규모를 파악하고자 하는 차원의 연구이기도 했다. 그동안 한국전쟁 민간인 학살자는 100만 명 이상이라는 주장이 많았지만, 실제 확인되는 기록은 이에 훨씬 미치지 못했다. 하지만, 국방부가 쓴 ‘한국전쟁사 4권’ 760쪽에는 이승만 정부 당시 비상경비사령부가 1950년 6월부터 10월 사이 106만 명의 민간인이 피살되었다고 발표한 내용이 분명하게 기재되어 있기에, 100만 명 넘게 학살됐다는 주장이 거짓은 아님을 알 수 있다. 하지만, 왜 확인이 되지는 않는 것일까?

“‘한국전쟁사’가 말하는 ‘적’, ‘인민군’은
민간인의 또 다른 이름이었던 것이다”

‘한국전쟁사’와 각종 기록, 현장 증언 등을 종합한 신 소장의 결론은 학살이 전투로 뒤바뀌어 기록되었기 때문이라는 것이었다. “먼저 토벌 작전(1950년 9월 이후 국군과 유엔군의 반격으로 남한에 고립된 인민군을 소탕하기 위한 전투)의 피해에 대한 기록을 봤다. 예상했던 것에 대부분 일치했다. 비무장 민간인들에 대한 공격인데 노획물은 소총 몇 자루에 기관총까지 등장했다. 전투로 위장했던 것이다. 제가 최근 직접 조사한 사례는 곡성이었다. 화려한 전쟁 공원으로 보아 대단한 전투가 있었던 것 같았다. 하지만 주민들의 증언은 달랐다. 과장되었지만 아무도 말하지 못한다고 했다.”

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상주 화령장 전투를 기념하는 화령전승기념관. 상주 화령장 전투는 남하하는 인민군에 큰 타격을 입힌 중대한 전투였다고 한국전쟁사 등은 기록하고 있다. 하지만 신기철 소장은 이런 주장에 의문을 제기하고 있다.ⓒ신기철

심지어 인민군 주력 부대와의 전투로 기록된 것 중에서도 민간인 학살을 전투로 둔갑시킨 사례가 많았다고 신 소장은 말했다. 그 대표적 사례로 그는 가장 유명한 전투로 손꼽히는 화령장 전투, 낙동강 전선의 전투, 인천상륙작전 등을 꼽았다.

“화령장 전투에는 패잔 인민군을 소탕한다면서 사살한 마을 주민들이 확인되었다. 전투 역시 일방적으로 우마차를 공격한 것이어서, 이를 전투라고 볼 수 있는지도 의문이었다. 낙동강 전선의 전투는 실제 피란민의 죽음이 더 많았다. 너비 7~8 키로미터의 주민 거주지를 소개했으니 해당 지역 주민들의 피해가 매우 컸다. 인천상륙작전을 위한 것이라며 영흥도와 덕적군도에서 벌어진 섬 주민 학살 사건은 더욱 노골적이었다. 인민군도 없었고 인민위원회라 해봤자 한 달이나 있었는지 의문스러운 지역이었다. 그리고 수시로 해군 첩보부대들이 드나들었던 곳이기도 하다. 하지만, 한국전쟁사는 총살당한 섬 주민들을 ‘적’으로 만들어놨다. ‘한국전쟁사’가 말하는 ‘적’, ‘인민군’은 민간인의 또 다른 이름이었던 것이다.”

피란민과 민간인이 인민군으로,
미군에 의한 민간인 학살이
인민군 범죄로 둔갑···….
“전쟁이라기보다 학살이라는
표현이 정확할 것이다”

이 책에서 신 소장은 여러 사례와 각 지역 사건들을 소개하고 있다. 앞서 소개했듯이 피난민, 주민 등이 적으로 몰려 목숨을 잃었다. 충북 영동 노근리 양민 학살 사건처럼 미군이 민간인 피난민 속에 북한군이 잠입했다며 폭격과 기관총 발사로 민간인들을 살해한 것을 ‘한국전쟁사’는 인민군이 지뢰지대를 통과하면서 피란민을 앞세워 지뢰를 제거하려 했던 행위로 왜곡했다. 하지만, 1999년 AP통신의 보도로 인해 학살의 진실이 세계에 알려졌고, 인민군과는 아무런 관련이 없는 사건임이 밝혀졌다.

아울러 한반도 북부 지역에서 벌어진 학살 사건도 다뤘다. 1950년 10월 1일 국군의 북진 이후 후퇴하던 12월 초까지 이북 지역에선 민간인 학살, 폭격 등에 의한 인명 피해(부상자 포함) 등으로 268만 명이 고통을 겪은 것으로 추정하고 있다. 우리에게 가장 잘 알려져 있는 사건은 신천 학살 사건이다. 미 1군단 24사단 19연대가 진입하면서 벌어진 이 사건의 피해자는 10월 17일부터 12월 7일까지 3만 5천 명이 넘는다. 당시 신천 인구의 4분의 1에 해당하는 피해였다.

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신천 학살과 관련한 유물들ⓒ기타

이런 사건들은 한국전쟁의 성격이 무엇인지 다시금 생각하게 한다. 한국전쟁은 민간인 피해가 군인들의 사상과 비교해 훨씬 많았던 전쟁이었다.

“전체 한국전쟁 피해자 600만 명 가운데 민간인은 350만 명에 이른다. 부상자까지 포함한 통계지만 사망자과 실종자만 비교한다면 그 차이는 더욱 커진다. 여기에 전쟁 초기 8개월만 비교하면 더욱 큰 차이를 보인다. 남한 지역의 경우 국군 피해 8~9만 명에 민간인 피해가 100만 명을 넘기 때문이다. 우리가 확인할 수 있는 민간인 학살 사례는 국민보도연맹 사건, 형무소 재소자 사건, 후퇴하는 인민군 측에 의한 사건, 수복 후 부역 혐의 사건, 미군 폭격 사건, 1.4후퇴 시기 예비학살 사건, 국민방위군 사건 등이다. 이는 전쟁이라기보다 학살이라는 표현이 정확할 것이다. 이승만 정부의 태도만 본다면 친위 쿠데타라고 봐도 될 것이다.”

학살이 전공으로 뒤바뀌면서 학살 가해자에게 훈장이 내려지기도 했고, 국립묘지에도 안장됐다. 이런 왜곡된 역사를 바로잡을 수 있을까? 아직 갈 길이 멀다.

“학살이 전투로 둔갑되었다는 주장은 아직까지 저만 하는 것 같다. 국방부가 스스로 알아서 바로 잡으려는 노력을 했으면 좋겠지만 거짓 기록 위에서 70년 동안 특권을 누려왔던 고급 장교들이 사과하지 않을 것 같다. 이제라도 한국전쟁사를 역사의 영역에 포함시켜 일반 연구자들의 연구와 논문 발표를 유도해야 할 것 같다. 전쟁사의 진실에 대해 대중적으로 알리는 작업도 필요하다. 한국전쟁사와 전투사를 거론하는 것 자체를 불경으로 여기는 풍토가 빨리 사라져야겠다.”

인민군, 좌익세력 등이
자행한 ‘적대세력 사건’도 조사 필요···….
하지만, 우익이 저지른 사건을
인민군이 저지른 사건으로
조작하는 등 왜곡 심각

이런 풍토와 국가보안법이라는 실체 때문인지 민간인 학살 문제를 거론할 때마다 일각에선 좌익이나 인민군도 학살을 저질렀다면서 국군과 경찰의 민간인 학살을 희석하려 시도하곤 한다. 상대편 역시 학살을 저질렀다고 해서, 우리 국가가 저지른 학살에 면죄부가 주어지는 것은 아니다. 신 소장은 인민군과 좌익세력 등이 자행한 이른바 ‘적대세력 사건’에 대한 조사가 필요하다고 지적했다. 이와 함게 남한 군경이 저지른 사건에 대한 왜곡이 심하다고 지적했다. 그는 올해 초 조사한 화순 지역 사례를 들며 민간인 학살이 우익과 좌익 모두에 의해 벌어진 배경을 이렇게 설명했다.

“전쟁 전 국군의 토벌 작전 학살이 있었지만, 이는 인민군의 점령기 동안 큰 보복으로 나타나지 않았다. 본격적인 피해는 수복하는 국군과 경찰에 의해 발생했고 이를 피하려고 입산하는 사람들이 늘어났다. 마을에 남은 사람들은 총살당하든가 소개지역으로 이동했고 토벌 국군은 마을에서 빠져나갔다. 마을은 소수지만 다시 입산했던 사람들로 채워졌다. 그 청년들은 가족들을 학살당한 모습을 목격한다. 그리고는 공격이 쉬운 마을 내부 배신자를 상대로 보복을 한다. 얼마 뒤 다시 토벌 국군이 마을에 진입했다. 다시 같은 일이 반복되고 살아남은 사람들은 악에 바친 빨치산으로 살아남았다. 이들은 체포되거나 죽을 때까지 투쟁한다. 마을에 남은 사람들에게는 이런 악순환이 벌어졌다. 모두 죽을 때까지 말이다. 그래서 이 유형의 사건들은 수복 후에 발생하는 특징을 갖고 있다.”

심지어 인민군과 좌익에 의한 학살이라고 기록됐지만, 실제론 경찰 측 치안대가 주민을 학살한 사건을 조작한 사례도 발견된다. “대표적인 사건이 고양 지역의 타공결사대 사건이다. 1950년 9월부터 11월까지 고양경찰서 신도지서의 치안대 활동을 보조해온 조직이 이후 군검경 합동수사본부 김창용 본부장에게 연행된 뒤 좌익조직으로 조작된다. 결국 이들 타공결사대에게 학살당했다는 100여 명의 주민들은 적대세력에 의한 희생자가 되어버렸던 것이다.”

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한국전쟁 전후 민간인 희생자 유가족들이 2019년 5월 22일 국회 앞에서 희생자들의 유골을 놓고 진실·화해를위한과거사정리기본법(과거사법 또는 진화위법) 개정을 촉구하는 기자회견을 하고 있다. 2019.05.22ⓒ정의철 기자

한국전쟁 민간인 학살을 비롯해 과거사와 관련해 풀어야 할 과제가 아직 많지만, 10년 만에 다시 가동된 진실·화해를위한과거사정리위원회는 아직 정상적으로 활동하지 못하고 있다. 출범을 선언하긴 했지만, 국민의힘이 야당 몫인 위원 4명의 추천을 아무런 이유없이 미루고 있기 때문이다. 국민의힘이 추천을 해도 갈 길은 멀기만 하다.

신 소장은 “과거청산을 반대하는 분들이 9명의 위원 가운데 4명이나 차지할 예정이다. 그 중 한 분은 상임위원으로 민간인 학살 사건 조사를 총괄할 것으로 예상된다. 진실규명 결정을 받는 것이 어려워진다는 것은 분명하다. 하지만 이 분들까지 설득할 수 있는 정밀한 조사가 진행되어야 한다는 점에서 부정적인 것만은 아닐 것”이라고 말했다.

“저는 한국전쟁 민간인학살 피해가
분단 상황에서 내전 또는 국제전 중
독재 권력에 의해 벌어진
전쟁범죄, 반인륜범죄였다고 생각한다.
그래서 이를 극복하는 것이
독재를 극복하고 분단 상황을 극복하여
민주주의와 통일, 평화를
이루는 것으로 여긴다”

신 소장은 2기 진실화해위에 대해 이런 바람을 전했다. “민주적이고 공정하고 투명하게 운영되어야 한다. 신청인들 위에 군림하는 것이 아니라 존중하고 설득하는 자세가 필요하다. 그리고 2기 위원회는 처리하지 못했던 사건이나 새로 나타난 사건들을 조사하는 것에 그치는 위원회가 아니라고 생각한다. 1기 위원회의 연장으로 과거 청산 작업 완성이 자기 임무라고 생각한다. 청산하지 못한 과거사를 덮는 곳이 아니라 역사적 의미를 부여해 살려내는 것이 임무다. 전쟁 시기는 물론 이후 민주화 운동의 과정에서 희생된 수많은 열사, 희생자들을 역사 속에서 되살려내는 일이 필요하다. 그래서 3년 뒤에는 조사기간을 연장해야 한다거나 권한이 없어서 못했다는 말보다는 과거 청산의 다음 단계로 가자는 말이 나올 수 있어야 한다고 생각한다. 어쩌면 이 일은 2기 위원회의 출발과 함께 진행되어야 할 일일 것이다.”

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2016년 3월 충남 홍성군 민간인 유해발굴이 종료되면서 66년 전의 민간인학살 유골들이 드러났다.ⓒ공동조사단

지난 진실화해위원회에서 활동한 이후 10년 간의 작업을 통해 한국전쟁 민간인 학살 사건의 시기별, 유형별, 지역별 분석을 해온 신 소장은 이제 새로운 도전에 나서고 있다.

“역사적 의미와 가해자, 가해 행위 분석을 통한 재발 방지 연구에 도전하고 있다. 제 인생에 이 과제를 마칠만한 시간이 얼마 없을 것 같습니다만, 여기에 더해 이후 벌어진 반독재 민주화운동 과정의 연속성을 규명하고 싶은 욕구가 있다. 저와 제 주변 인사들의 인생도 이 과정에서 만나 어우러져 왔다. 당시 희생당한 친구들도 있고 여전히 실종 상태에 있는 친구도 있다. 1기 진실화해위원회에 신청했지만 결국 여전히 실종상태로 방치되어 있다. 저는 조사관이기도 했지만, 신청인의 입장에서 가진 분노가 무엇인지 알고 있다. 제가 겪었던 시대 역시 어떻게 해석해야 하는지 의문을 가지고 있다. 70년 전에 벌어진 민간인 대량 학살 사건이 이후 현대사의 열쇠라고 믿고 있는 저로서는 이후 벌어진 사건들에 대해 전쟁의 연장선 상에서 재해석에 도전해 보고 싶다.”

어떤 이들은 아직도 과거를 이야기하냐고 말한다. 하지만, 신 소장은 진정 미래로 나가기 위해 넘어야 산은 민간인 학살 등 과거사라고 강조한다.

“저는 한국전쟁 민간인학살 피해가 분단 상황에서 내전 또는 국제전 중 독재 권력에 의해 벌어진 전쟁범죄, 반인륜범죄였다고 생각한다. 그래서 이를 극복하는 것이 독재를 극복하고 분단 상황을 극복하여 민주주의와 통일, 평화를 이루는 것으로 여긴다. 그래서 저는 이 운동이 광범위한 관심과 지지 속에서 이루어질 것으로 보았지만 현실은 전혀 그렇지 않았다. 민주화운동하는 분들이나 통일운동가, 평화운동가, 심지어는 인권운동가들조차 주목하는 경우가 많지 않았다. 역사 영역에서는 거의 소외되어 있고, 과거사라며 특별한 분야로 제한하는 경향이 큰 것도 주요 원인 중 하나 아닐까 싶다. 하지만, 과거사 영역을 더 확장시키지 못하는 저를 더 반성하게 된다. 곧 다른 모습을 보여드릴 수 있도록 노력하겠다.”

https://www.vop.co.kr/A00001534243.html

高陽・金井窟の慰霊事業をめぐるフォローアップ・1:なお終わらない「綱引き」

1年ほど触れてこなかったのですが、この間の動向を簡単にフォローすべく、備忘録的に記事をピックアップ。

blue-black-osaka.hatenablog.com

まずはソウル新聞。昨年の6.25の紙面で一面を飾った金井窟事件犠牲者遺族のインタビュー。この30年ほどの間に語り続けられてきた内容ですが、最後のほう、国家賠償訴訟で勝利し、慰霊事業を支援する条例案が可決されたにもかかわらず、「それでも戦いは終わらなかった」ことが記されています。

“빨갱이 가족이란 낙인 두려워…금정굴 쪽은 쳐다도 안 봤어요”
입력 :2020-06-24 22:00ㅣ 수정 : 2020-06-25 09:32

6·25전쟁 금정굴 민간인 희생자 유족 인터뷰

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▲ 24일 경기 고양시 금정굴인권평화재단 사무실에서 이병순(왼쪽) 금정굴유족회 고문과 채봉화 유족회장이 서울신문과 만나 고통의 세월들을 이야기하고 있다. 오장환 기자

“어려서는 내가 금정굴을 하루이틀 걸러 다니면서 무섭지도 않은지 거길(굴 위를) 건너뛰고 그랬지요. 그런데 아버지 죽고 나서 한 20여년 동안 한 번도 가지를 않았어요. 그쪽은 쳐다도 안 보고 얼씬도 안 하고 싶더라고요.”(이병순 금정굴유족회 고문)

경기 고양시 일산서구 일산동 황룡산 자락에 있는 18m 깊이의 수직 폐광 ‘금정굴’. 한때 ‘금구뎅이’라고 불렸던 영광의 기억도, 동네 꼬마들이 폴짝폴짝 뛰놀던 추억도 온데간데없다. 금정굴은 이제 ‘무덤’이다. 1950년 10월 9일부터 25일까지 고양·파주 지역의 민간인 160여명이 ‘빨갱이’로 낙인찍혀 재판 한 번 받지 못하고 학살당한 채 금정굴에 버려졌다.

70년이 지났지만 희생자들은 한 몸 온전히 누일 곳 없이 떠돌이 신세다. 1995년 유족들이 발굴 작업을 벌여 153구 이상의 유해가 세상에 나왔다. 신원이 확인된 희생자만 76명이다. 유해를 모실 곳이 마땅치 않아 지금까지 납골당만 세 차례 옮겼다. 2007년 진실·화해를 위한 과거사정리위원회가 금정굴 민간인 학살 사건을 “경찰에 의한 불법적인 집단학살”로 결론 내렸지만, 희생자들의 넋은 위로받지 못했다. 진실화해위원회가 권고했던 평화공원 설립도, 영구적인 유해 안치소 설치도 아직 이뤄지지 못했다.

유족들은 애가 끓는다. 부역 혐의자 가족이라는 낙인이 두려워 문민정부가 들어서기 전까지 금정굴 쪽은 애써 외면했다. 억울한 죽음을 애도할 권리마저 박탈당한 채 살아온 세월이 수십 년이다. 서울신문은 24일 채봉화(74) 금정굴유족회장과 이병순(87) 고문을 만났다.

1950년 10월 9일. 당시 열일곱 소년이었던 이 고문의 뇌리에는 70년 전 모습이 스틸사진처럼 남아 있다. 집 앞에서 두 사람씩 삐삐선(군용통신선)에 묶인 채 이동하는 행렬을 목격했다. 맨 뒤에 아버지 이봉린이 있었다.

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▲ 사진은 1995년 10월 경기 고양시 금정굴 현장에서 발굴된 희생자들의 유해. 발굴 시작 4일째인 1995년 9월 29일 첫 유골이 나온 이후 같은 해 10월 6일 15m 깊이에서 굴의 안전성에 문제가 있다고 판단돼 발굴이 중단됐다. 이 무렵 온 산이 유해로 뒤덮였고 유족과 시민단체 회원들이 번갈아 비닐 천막에서 밤을 지새우며 현장을 지켰다. 금정굴인권평화재단 제공

보리밭 갈다 끌려간 아버지… 유해안치소도 없이 ‘떠돌이 신세’

한국전쟁이 터지고 3일 만에 수도를 빼앗긴 국군이 9월 28일 서울을 수복한 무렵 이봉린은 능곡국민학교에서 열린 유엔군 환영대회에 나갔다가 치안대에 끌려갔다. 인민군이 마을을 점령한 시기 ‘농촌위원장’을 맡아 공출량을 계산하는 부역을 했다는 이유였다. “우리 아버지가 일산리 구장(區長)을 했었거든. 동네에서 추켜세우는 사람이잖아. 주변에서 ‘형님이 일 봐야지’ 하니까 맡게 된 건데….”

어머니와 7남매는 잡혀간 아비의 끼니 걱정에 매일 번갈아 수십 킬로 걸어 밥을 날랐다. 그러던 어느 날 고양경찰서에서 “(부역 혐의자들이) 문산으로 좌익 심사를 받으러 가서 오늘은 밥을 안 받는다”고 했다. 이 고문은 “문산을 가는 줄 알았지 금정굴로 가는 줄 누가 알았겠느냐”면서 한숨을 내쉬었다.

행렬을 몰래 뒤따랐던 다른 희생자 유족을 통해 이 고문 가족은 진실을 알게 됐다. “아이고, 심사가 뭡니까. 그 구뎅이로 가서 다 쏴죽였어요!”

장남이었던 이 고문은 그 길로 작은아버지, 마을 어른들과 함께 사다리와 밧줄을 챙겨 금정굴로 향했다. 시신이라도 수습하자는 마음이었다. 그러나 시신은 찾지 못했고 피투성이가 된 채 금정굴에 떨어져 “살려 달라”고 외치는 한 사람을 구했다. 총알을 빗맞은 덕에 목숨을 건진 동네 주민 이경선이었다. 금정굴 사건의 유일한 생존자인 이씨는 이후 죽을 때까지 고향 땅을 밟지 않았다. 금정굴에서 학살이 처음 벌어진 이날 이봉린을 포함해 46명이 희생됐다.

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▲ 1993년 첫 위령제를 지낼 때 금정굴 현장의 모습. 부역혐의자 가족에 대한 낙인 때문에 오랜 시간 숨죽여 살아온 희생자 유족들은 1993년 문민 정부가 출범하면서 세상 앞에 나섰다. ⓒ금정굴인권평화재단 제공

희생자 가족은 공포에 사로잡혀 침묵해야 했다. 그날 밤 이 고문의 집에 들이닥친 경찰은 “시체 가져왔느냐”, “빨갱이 찾으려고 금정굴에 갔다 왔느냐”고 화를 내며 장작 더미며 아궁이 구멍이며 죄다 창으로 쑤셔 댔다.

“그날 금정굴에서 집으로 돌아오는데 누가 고발을 했는지 자전거를 탄 태극단 놈들이 서넛 올라오고 있더라고. 길이 엇갈려서 망정이지 거기서 마주쳤다면 우리도 다 죽는 거야. 일곱 사람이 갔었는데…. 그래서 잠자코 살았던 거지.”

“이제는 시대가 달라져 말이라도 하지, 예전에는 아버지가 ‘빨갱이’로 돌아가셨다고 어디 가서 말도 못해….”

채 회장은 45년의 세월 동안 아버지의 죽음을 가슴에 묻고 살았다. 아버지 채기동은 보리밭을 갈다가 총을 멘 치안대 3명에게 끌려간 뒤 소식이 끊겼다. 그때 고작 네 살이었던 채 회장은 아버지와의 기억이 없다. 그는 졸지에 과부가 된 어머니와 금쪽같은 외아들을 잃은 할머니의 넋두리로 부친을 기억한다.

“우리 엄마가 맨날 그러셨지. 봉화야, 네 아버지 금정구뎅이 가서 죽었다. 남들이 그런다.”

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▲ 1995년 10월 금정굴 현장에서 발굴된 희생자 유해. 발굴을 시작한지 4일째인 9월 29일 첫 유골이 나온 이후 10월 6일 15m 깊이에서 굴의 안정성에 문제가 있다고 판단하고 발굴을 중단했다. 이 무렵 온 산이 유해로 뒤덮였고 유족과 시민단체 회원들이 번갈아 비닐 천막에서 밤을 지새며 현장을 지켰다. ⓒ금정굴인권평화재단 제공

채 회장은 금정굴과 가까운 파주에서 평생을 살았다. 그러나 아버지가 죽고 45년이 지난 1995년에서야 처음으로 금정굴을 찾았다. 뉴스로 유해 발굴 소식을 전해 듣고 동생과 함께 갔다.

채기동은 6년 동안 강제징용을 당했다가 해방 이후 돌아왔다. 채 회장은 “9척 장신에 원체 기운이 장사라 인근에서 아버지를 당해 낼 사람이 없었다더라”고 했다. “총을 멘 치안대가 당신을 찾으니 도망가라”는 말에도 채기동은 “잘못한 것이 없다”며 당당했다.

‘부역자 가족’의 삶은 매 순간 고통으로 점철돼 있었다. 채 회장은 “어머니가 생계를 위해 봇짐 장사를 하려면 도민증이 필요했는데 우리한테는 도민증 허가를 안 내줘서 어머니가 ‘꼼짝없이 죽겠다’며 우셨다”며 “핍박받으면서 세 딸을 키운 어머니를 생각하면 눈물부터 난다”고 했다.

채 회장이 끝까지 파주를 떠나지 않은 건 어머니의 유언 때문이다. 채 회장 가족은 시간이 흘러 아버지에게 부역 혐의자라는 누명을 씌운 마을 사람이 누군지 알게 됐다. 어머니는 “내가 죽어도 넌 반드시 이 동네에 살면서 남의 눈에 피눈물 흘리게 한 사람들이 어떻게 사나 두고 보라”는 말을 남겼다.

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▲ 금정굴 유족 김기성씨
덕이리 한산마을에 살던 아버지(김형렬)는 10여명의 마을 주민들과 함께 수복하던 경찰과 치안대를 환영하러 나갔다가 고양경찰서로 연행되었다. 아들 김기성은 아버지가 경찰서에서 풀려나지 않자 도시락을 날랐다. 10월 6일 희생자가 금정굴로 끌려가는 모습이 처가 식구들에 의해 목격되었다. ⓒ김은주 사진작가 제공

“신도시 주민들은/발 밑이 저승인 사실은 모른 채/오래전 이 마을을 휩쓸고 간/역병보다도 더 고약한 숙청은 모른 채/두개골 정강뼈 쇄골 잘근잘근 밟으며/황솥밭 샛길을 오갈 뿐이다”(손세실리아, ‘뼈무덤’)

용기를 내 세상에 나온 유족들은 긴 싸움을 했다. 승리도 수차례 맛봤다. 2007년 진실화해위원회는 진실 규명을 결정하면서 “최종 책임은 국가에 있고 희생자 상당수는 도피한 부역 혐의자 가족이거나 이와 무관한 지역 주민이었다”고 했다. 2012년에는 국가 배상 소송에서 승소해 “희생자 2억원, 배우자 1억원, 부모·자식 각 5000만원을 지급하라”는 판결이 확정됐다. 수차례 무산됐던 ‘6·25전쟁 민간인 희생자 위령사업 지원 조례안’도 2018년 고양시의회에서 통과됐다.

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▲ 금정굴 유족 서영자씨
사리현리 새터말에 살던 아버지(서정희)는 제일금융에서 일했고, 전쟁 전에 야학을 열고 한글을 가르치기도 했다. 수복 후 벽제면 읍내로 오라는 연락을 받고 간 후 치안대 사무실 창고에 감금되었다. 어머니가 엿새 동안 밥을 해서 날랐으나 일주일째 되던 날 창고에는 아무도 없었다. ⓒ김은주 사진작가 제공

그럼에도 싸움은 끝나지 않았다. 희생자가 제대로 된 위령시설 없이 떠돌고 있고 유족이 겪는 고통도 여전하다. 일부 보훈단체 회원들은 아직도 희생자를 ‘토착 빨갱이’라고 부른다. 보수 정당 시의원은 조례 제정을 반대하며 “(희생자들은) 김일성 앞잡이 노릇을 했다”고 공공연하게 말했다. 금정굴 현장에 조성될 계획인 평화공원은 “납골시설이 들어오면 집값 떨어진다”는 일부 주민들의 반발에 부딪혔다.

채 회장은 “지금 희생자들을 임시 안치한 세종추모공원은 너무 멀다. 가까운 곳에 희생자들을 모시고 자주 왔다 갔다 하는 게 유족들의 소원”이라고 말했다. 이어 “죄도 없이 잡혀가 죽고, 설령 죄가 있다고 해도 재판 한 번 열지 않고 죽은 희생자들의 명예를 회복시켜 줘야 한다”고 덧붙였다. 이 고문은 “도저히 있을 수 없는 일이 벌어지게 한 전쟁이 다시는 없어야 한다”고 말했다.

진선민 기자
2020-06-25 1면

https://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20200625001012

遺族が望む慰霊事業に反対するのは、虐殺事件に関係した太極団に連なる報勲団体はまあそれとして、金井窟の位置する地域の住民団体も含まれます。両者の遺族との利害対立の構図は異なっていて、後者については、住民が望む開発計画と遺族が望む慰霊施設とのバッティングによるものです。

고양 탄현 등 주민들, LH 찾아 공공지구 재고 의견 전달
고중오 기자 등록 2020.07.14 14:58:13 8면

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▲ 고양 탄현, 중산, 일산 주민대책위 , LH고양지역사업본부에 주민서명부 전달(사진=탄중일 주민대책위 제공).

고양시 주민들이 LH가 탄현동 일대에서 추진중인 공공지구 건립과 관련해 반발하고 나섰다.

고양시 탄중일(탄현·중산·일산)주민 대책위원회 이정환 위원장과 일산연합회 이현영 대표, 김완규 시의원은 14일 LH고양지역사업본부를 방문해 ‘LH공공지구 반대 및 주민요구사항’ 등을 전달했다.

탄중일 대책위원회(이하 대책위)는 지난해 12월 탄현지구 건립 계획과 관련한 공청회가 열린 이후 결성된 단체로, 그동안 황룡산 고봉산 보존 문제를 제기하며 공공지구 지정의 문제점을 지적해 왔다. 또 금정굴 유해 안치와 관련한 반대 활동을 하고 있는 단체다.

LH공사는 탄현지구에 20~30층 고층 아파트를 건설하는 내용을 주로 한 지구사업 계획을 밝힌 바 있다.

이에 대책위는 탄현동 인구의 15%에 해당하는 7천여명의 주민들의 서명을 받아 관계기관에 주민 의견을 전달한데 이어 이날 LH 공사 측에도 반대 서명 등을 전달했다.

이정환 위원장은 “LH공사에 전달한 주민 반대 서명부 요구사항은 황룡산을 지키기 위해 아파트 높이를 15층 이하로 해 줄 것과 공원 주변 도로 주차장화를 맏기 위하여 1세당 1주차 면적 확보 등이 담겨있다”고 밝혔다.

또 이 위원장은 “이미 과밀 학급 지역인 탄현, 중산, 일산 교육환경 계선을 위한 초·중 교육시설 확보와 3천300세대에 달하는 인구 증가에 따른 주변 교통환경 개선 방안을 먼저 마련할 것을 요구했다”며 “대단지 아파트 공사로 인해 기존 주민들의 생활여건이 급격히 나빠질 우려가 크다. 관련한 계획을 우선 수립하는 것이 필요하다”고 강조했다.

이 단체는 또 이재준 고양시장의 공약사업인 평화공원조성과 관련해 LH공사와 시를 상대로 금정굴 관련 봉안시설 등 각종 개발 계획에 대한 공개를 요구했다.

고양시 일산서구 탄현동에 위치한 금정굴은 한국전쟁 때 민간인을 집단학살한 현장으로, LH공사가 추진하는 공공주택지구 내 탄현근린공원 황룡산 줄기에 자리해 있다.

반면 일부 시민들이 납골시설이라고 반발하고 있는 반면 금정굴 유족회는 평화시설이라고 주장하면 논란이 이어지는 곳이다. 지난 총선에서는 이를 둘러싸고 미래통합당과 더불어민주당 후보간 다른 의견을 제시하면서 주민간 갈등도 높은 상황이다.

대책위는 “금정굴 관련 봉안시설 등 또는 이 지역 각종 개발 계획 등에 대해 주민들과 최대한 소통을 위해 앞으로 구체적인 내용 등이 나올 경우 다양한 방법으로 주민과 소통해 줄 것”을 이날 LH측에 요구했다.

[ 경기신문/고양 = 고중오 기자 ]

https://www.kgnews.co.kr/news/article.html?no=592575

遺族にしてみれば、この場所は父祖が命を奪われたまさに現場であり、歴史の記憶と教訓を後世に伝える平和公園たる慰霊施設は、「墓地として、その地になければならないもの」なのです。他方で、かつて農村地帯だった炭峴洞はすでに住宅開発が進んで多くの新住民が暮らしており、その意向も無視できない、ということで現在、高陽市LH韓国土地住宅公社)を間に挟んだ綱引きがなお終わっていない状況です。

“금정굴 평화공원, 조속히 추진돼야”
기자명 방재현 기자 입력 2020.10.27 11:59 수정 2020.10.27 14:57 댓글 15

제70주기 6.25전쟁 전후 민간인 희생자 합동위령제전

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금정굴유족회에서 민간인 희생자들을 추모하고 있다. (사진제공 = 금정굴인권평화재단)

[고양신문] 70년 전 금정굴에서 억울하게 죽음을 당한 민간인 희생자들의 유골이 현재까지 안식처를 찾지 못한 채 떠돌고 있다. 이들의 희생을 위로하고 인권ㆍ평화의 장을 마련하기 위한 6ㆍ25전쟁 민간인 희생자 합동위령제전이 16일 금정굴 현장에서 진행됐다.

이번 제70주기 위령제전에는 금정굴유족회, 금정굴인권평화재단, 시 관계자 등 총 30여 명이 참석해 희생자들의 넋을 기렸다. 코로나19와 유족회원 대부분이 고령임을 감안해 방역수칙을 준수하며 인원과 식순을 최소화해 진행했다.

채봉화 유족회장은 인사말을 통해 “코로나19로 인해 제70주기 위령제전이 축소 진행된 점을 안타깝게 생각한다”며 “평화공원과 위령탑 조성사업이 속히 진행돼 민간인 희생자들의 유골이 어서 고향으로 돌아올 수 있기를 바란다”고 말했다. 이어 채 유족회장은 “우리 유족의 대부분이 고령자인 관계로 더 이상 조성사업을 늦춰선 안 된다. 이재준 시장께서도 관련 사항을 조속히 진행하겠다고 약속한 만큼, 빠르게 추진해 금정굴이 인권ㆍ평화의 터전이 될 수 있기를 희망한다”는 의견을 전했다.

위령제전에 참여한 김옥님 고양시 인권팀장은 “6ㆍ25전쟁 중 금정굴에서 무고한 희생을 당한 민간인 분들의 명복을 빈다”며 “고양시는 평화ㆍ인권회복을 위한 평화공원 설립과 역사를 바로 알리기 위한 역사복원 사업 등을 위해 지속적으로 노력하겠다”고 말했다.

앞서 2007년 당시 대통령 직속 진실화해위원회는 고양 금정굴에서 비무장 민간인들이 아무런 적법절차 없이 국가권력에 의해 집단희생 됐음을 인정했다. 또한, 유족들이 오랜 세월 슬픔과 고통을 안고 살아온 데 대해 공식적으로 사과할 것을 권고해 정부차원에서 공식 사과까지 했다. 아울러 진실화해위원회는 조사보고서를 통해 정부와 지방자치단체가 희생자들의 영혼을 위무하고, 지역주민과 국민들에게는 역사적 교훈을 남기기 위해 금정굴 지역에 평화공원과 역사관을 설립하고, 적절한 위령시설을 설치할 것을 권고한 바 있다.

이에 이재준 시장 또한 시의회 제236회 제2차 본회의 시정질의(2019.11.26)에서 “(금정굴에서) 6ㆍ25전쟁 당시에 무고한 시민들이 죽었다는 것 그리고 그러한 우리 갈등과 아픔이 존재했다는 것을 기억해야 한다”며 “정부 권고대로 하는 데 있어서 어떤 지자체장도 거부할 수 없다. 그것은 역사가 우리한테 명령한 것”이라고 이야기 한 바 있다.

https://www.mygoyang.com/news/articleView.html?idxno=61385

さいとうちょろ『今日からHなマンガを作ることになりました』を読む。

たまたま見つけて読んでいた作品。単行本版で全4巻完結です。

簡単にまとめれば、少女漫画編集志望の若林ちゃんが成人マンガの編集部に配属されて何だかんだと頑張るお話です。

で、これがなかなかいい作品なんですよ。新人でいきなりエロマンガの製作現場に放り込まれて、あれやこれやにショックを受けながらも一つ一つの経験を積んでいく中で、仕事の何たるかを身につけていく。言うなれば王道の成長物語なんですけど、プロの漫画家さんが編集者さんに取材しながら作っているだけあって、フィクションの中にさりげないリアリティを混ぜ込んであります。

いや、マンガの製作や編集の現場を私が知っているわけではないんですけど、漫画家が煮詰まったり潰れたりする時のありさまとか、仕事で激しくやらかした時のカバーリングの様子とか、想像を超えるプロフェッショナルの仕事ぶりとか、何かを教わるときに越えないといけない無茶ぶりの壁や、普段は忘れていても時おり思い起こすことのある憤りや、人が見かけによらないこともあるところや、いろんなところで自分の経験に照らしてリアルさを感じることができました。

何より、エロマンガに仕事のやり甲斐を感じるに至るまでの描写が上手いんですよね…。


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エロマンガに題材を採っているので、薦めるのに若干気後れするところもないではないですが、これから就職活動する大学生あたりに読んでもらいたい作品です。