金融都市・大阪の歴史遺産

大阪市内って、ごく一部を除いて緑が少ないことなどもあり、正直いって住みたいとは全く思わないのですが、近代都市としてみれば、けっこういろいろな歴史建築が残ってて面白いところです。金融都市・大大阪の在りし日の面影に過ぎないと言われればそうなんですけどね…。

ともあれ、こんな風に歴史を紐解いてみると、ただ眺めているよりも、いろんなことを想像することができて楽しいです。

銀行支店番号に再編の痕跡、金融都市・大阪の歴史映す
とことん調査隊
関西タイムライン 2021年3月9日 2:01

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会社の近くの銀行の支店で口座を開設した際、通帳にある「店番号」を見てふと疑問が浮かんだ。「この番号、どう決まっているんだろう?」。大阪は国内初の手形交換所が誕生した金融都市。背景を探ると、世紀をまたぐ銀行再編の歴史、関西に残る金融遺構の数々が見えてきた。

疑問の発端は三菱UFJ銀行の瓦町支店(大阪市中央区)だ。記者が子どものお年玉を預けようと開設した口座の通帳には、店番号が「003」とある。東京の本店(001)と丸の内支店(002)に次ぐ番号だが、なぜいきなり大阪の瓦町支店なのか。

全国銀行協会によると、各銀行は1973年から全国銀行データ通信システムを介して振り込みなどを行い、各口座を4桁の各金融機関コード、3桁の店番号、口座番号で識別。ただ、店番号は各行独自に決めており、並び順のルールも明確ではないという。

90年代のバブル崩壊を経て銀行の再編が進み、支店の整理・統合の際、各行は顧客の不便を避けるため、以前の店名と店番号をできるだけ引き継ぐ配慮をしたとされる。これが瓦町支店の謎に関わる。

三菱UFJ銀によると、前身の東京三菱銀行で1桁の店番号は001、002だけ。もう一方の前身、UFJ銀行は大阪を本拠にした三和銀行などが源流で、瓦町支店の003は同行から引き継がれた。大阪の船場支店(004)や玉造支店(007)なども三和の名残というわけだ。

驚いたのは瓦町支店の歴史の深さだ。1879年(明治12年)、大阪の両替商を前身とする山口銀行の本店として開設され、昭和初期に鴻池銀行三十四銀行との3行合併で三和銀行が誕生。同行瓦町支店として歩んできた。

次は堺筋を200メートルほど南へ。ここに、りそな銀行の本店ビルがある。同行で最も若い店番号は、意外なことに奈良の天理支店(005)。広報担当者が「奈良銀行の名残でしょう」と教えてくれた。

同行の前身は大和銀行。2000年代にあさひ銀行奈良銀行と合併した。大和銀の店番号は基本的に100番台が大阪市内、200番台が大阪府内で、りそな銀もほぼ同様の並び。合併した奈良銀などの店番号は、合併時に重複していなければそのまま使用していることが多いようだ。

大和銀の源流は1918年設立の大阪野村銀行(証券部門は後の野村証券)。24年建築の同行本店ビルの柱の一部は、りそな銀本店前に残る。さらに南へ1キロ、みずほ銀行南船場支店のあった所にも壮麗な柱が。銘板によると「旧第一勧銀高麗橋支店の正面玄関」にあった石柱で、26年建築の同支店からの移築物だ。

歴史的建築では三井住友銀行大阪本店も見逃せない。第1期工事の竣工は26年で、前身の住友銀行の本店営業部として使われた。今も三井住友銀の大阪本店営業部(101)が入り、現存する天井のステンドグラスが美しい。案内してくれた安部尚・管理部推進グループ長は「通勤のたび伝統を感じます」と誇る。

住友銀の店番号の始まりは100番台で、200番までは全て大阪府内の店舗だ。さくら銀行と合併し三井住友銀になった後も、ほぼ受け継がれており、大阪を拠点とした住友の存在感を今に残す。

一方、北浜地区の大阪中央支店も36年完成と古く、神殿風の列柱が目を引く。店番号が「710」なのは元が住友銀ではなく、三井銀行(後のさくら銀)の大阪支店だったからだが、合併時には住友銀の高麗橋支店を吸収した。「対等の精神」で合併した両行は、互いの伝統を尊重しつつ店舗再編に腐心したようだ。

インターネットバンキングの利用が増え、最近は店舗に行く機会は減ったが、その背景に目をこらすと金融再編の歴史が垣間見える。日本経済を支えてきたバンカーたちの姿を思った。(堀越正喜)

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHC16AFO0W1A210C2000000/

【尼崎の風景】吹上霊園

尼崎のお墓そぞろ歩き。目標となるお墓は各地に点在しているので、ネタに困ることは当分ありません。

続いては吹上霊園。所在地の住所は武庫之荘。最寄りも阪急の武庫之荘駅です。徒歩ならまあ、20分かからない程度ですかね。

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このあたりは、もともと武庫村。武庫之荘といえば尼崎でも高級住宅街のイメージがありますけど、1937年に武庫之荘駅ができる前は農村地帯であり、その後、戦後にかけて駅周辺の住宅開発が進んだ場所です。

武庫庄 むこのしょう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

地元では「むこんしょ」と発音している。武庫地区の大字。市域北西部に位置する。弥生時代の武庫庄遺跡がある。中世の武庫荘の中心地であったと考えられる。史料上の初見は1190年(文治6)「内宮役夫工科未済注文」(吾妻鏡/『尼崎市史』第4巻)。

近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に222.7石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に325.691石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数32軒、人数147人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には27軒、119人とある。富松井組に属した。氏神須佐男神社(近世には牛頭天王社)。ほかに春日神社があったが1907年(明治40)須佐男神社に合祀された。

1889年(明治22)以降は武庫村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1978年の住居表示により武庫之荘本町となったほか、一部が武庫之荘武庫之荘東となった。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%BA%84

武庫村 むこむら 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

1889年(明治22)4月の町村制施行によって、当時の常吉組戸長役場管轄区域(西昆陽・常松・時友・友行・常吉・西武庫・東武庫・武庫庄・西富松・生津・守部の11か村)がそのまま武庫村となった。人口は2,965人(1889年末)、村役場は常吉村の旧戸長役場におかれた。1937年(昭和12)阪急電鉄武庫之荘駅を開設し、その周辺に住宅地を開発したので人口も漸増したが、1942年2月11日尼崎市と合併した当時もようやく1万900人にすぎず、全体としてはなお純農村地域であった。

執筆者: 山崎隆三

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E6%9D%91

武庫之荘駅(阪急電鉄) むこのそうえき(はんきゅうでんてつ)
武庫之荘駅より転送) 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

阪急電鉄武庫之荘駅は園田駅が開設された翌年、1937年(昭和12)10月に駅北側の阪急住宅地の売り出しと同時に開設された。駅名は、はじめは「武庫ノ荘」であったが、小林一三の意見で「ノ」を「之」に改めたという。武庫之荘住宅地は総面積6万坪、戸数70戸、1戸当たりの面積が100~200坪、値段は7,300~1万9,000円で、広くて新しい住宅街として注目された。駅南側に南改札口が設置され、駅前広場がつくられ市営バスが乗り入れるようになったのは1970年のこと。それまで駅南側には田園風景が広がっていた。なお、1937年の駅の開設とあわせて南側のプラットホーム沿いに植えられた桜並木は今では約80本となり、春にはその木々に公募した短冊が結ばれ“ホームで花見”に興をそえている。

執筆者: 津金澤聡廣

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E4%B9%8B%E8%8D%98%E9%A7%85

武庫土地区画整理事業 むことちくかくせいりじぎょう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

市西北部にあって、武庫川に接した武庫豊町・武庫町・武庫元町・武庫之荘の各一部で63.7haを対象に、公共団体(市)により1959年度(昭和34)から1967年度まで施行された。事業費は3億7,000万円。戦時中の1942年、この地区は広範囲な防空緑地として指定され、県がその土地43.3haを買収して一部はグライダーの滑空場として整備したが、戦後、農地改革により大部分が解放された。市はこの地区に大学の誘致や大規模公園の設置等を検討していたが、一部7.1haを県営公園に、一部を年々膨張する人口対策として住宅公団の団地(建設戸数2,192戸)を誘致することに決め、前記の緑地指定を整理して両者を包括した周辺整備を土地区画整理事業により実施した。地区は阪急電鉄武庫之荘駅から約1.2kmと近く、武庫之荘住宅街に沿接した戦後初の市施行宅地造成事業として完成した。竣工時には、交通公園を主体とした県営西武庫公園・公団住宅等に見学者が絶えなかった。

執筆者: 枝川初重

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E7%94%BB%E6%95%B4%E7%90%86%E4%BA%8B%E6%A5%AD

ということで吹上霊園。武庫之荘駅からここまでの道、よく観察してみれば、かつて農村であった面影、その後新たな住宅として開発されたという履歴が、感じられるような気がします。

場所的には武庫東小学校の目の前になります。

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ここは、入り口すぐところに由来記を刻んだ石碑があります。この地域の区画整理と宅地化を受けて、古い墓地の整備が行われ、今に至ることがわかります。

「友行」はこの辺りの大字ですが、地名としては「武庫之荘」の陰で消滅したといいます。

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友行 ともゆき 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

武庫地区の大字。市域北西部に位置する。弥生~古墳時代の道ノ下遺跡・南戸板遺跡があり、また時友にかけて平安~鎌倉時代の時友遺跡がある。史料上の初見は1277年(建治3)「醍醐寺報恩院領年貢注進状」(醍醐寺文書/『尼崎市史』第4巻)で野間村友行名〔みょう〕とある。野間荘の名田開発領主名に由来する地名であろう。隣村の時友も同荘の名田であり、中世から近世にかけて野間荘が野間・時友・友行の3村に分離していったものと考えられる。

近世には1617年(元和3)旗本長谷川氏(守知系)知行所、1632年(寛永9)大部が同氏守勝系に分知され、残る小部は1646年(正保3)幕府領、1694年(元禄7)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地、1823年(文政6)幕府領、1828年尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に295.2石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に300.862石とある。富松井組に属した。氏神須佐男神社(近世には牛頭天王社)で時友と立会、寺院は高野山真言宗白衣観音寺(旧称観音寺)、ほかに近世には真言宗瑞光山常法寺があった。

1889年(明治22)以降は武庫村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1978年の住居表示により武庫之荘となったほか、一部が武庫之荘本町・西昆陽〔こや〕となり、友行という地名は消滅した。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%8F%8B%E8%A1%8C

綺麗に整理された墓域内には、尼崎市内の他の墓地と同様、明治から江戸期の墓地が散見され、軍人墓のほか、無縁化した墓碑を集めた一角を見ることもできます。

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土地の由来を知り、近代の歴史を知ってからこの墓地を眺めれば、そこにはもうないものも含めて、いろんな物事について考えることができます。

新旧の阿蘇大橋の狭間で

熊本地震のあと、2018年に阿蘇を訪れた時には、豊肥線阿蘇大橋の周辺もとても復旧をイメージできる状態ではなかったのですが、豊肥線が開通し、こうして新阿蘇大橋が開通し、主要交通網としてはあと南阿蘇鉄道を残すのみになりつつあります。様々な変化を飲み込みつつ、歳月は確実に過ぎています。

また機会を見つけて、訪れることはあると思います。

「息子の遺品探し続ける」故大和晃さんの両親 新阿蘇大橋に複雑な心境も
2021/3/6 19:50 (JST)3/7 09:40 (JST)updated
©株式会社熊本日日新聞社

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大和晃さんが犠牲となった旧阿蘇大橋近くで花やたばこを供える父卓也さん=3日、南阿蘇村河陽

 2016年4月の熊本地震で崩落し、約600メートル下流で再建していた国道325号新阿蘇大橋(南阿蘇村)が7日、開通する。地元では観光客増や交通の利便性向上に期待が高まる。一方、崩落現場付近の土砂崩れで車ごと流されて犠牲になった大和晃[ひかる]さん=当時(22)=の父卓也さん(62)は、復興の進展を歓迎しつつも、「まだ車体の半分が現場に残っている。もろ手を挙げて開通を喜べない」と複雑な心境をのぞかせる。

 3日、卓也さんは崩落現場近くにある、アスファルト片を積んだ祭壇を訪問。花とジュースを供え、晃さんが好んだ銘柄のたばこに火を付けた。「妻からは、『あなたが吸っていたから晃が吸い始めたのよ』と怒られていた」と頭をかきながら懐かしむ。

 地震から5年がたとうとしている今でも、晃さんの遺品を探し続けている。1、2週間に1度は祭壇に行き、雑草が茂ると刈り払い機できれいにする。真下を流れる黒川が見えなくなるからだ。「体は戻って来たが、車には持ち物が残っているかもしれない。それは晃の一部。これからも川を見つめ続ける」

 卓也さんと妻忍さん(53)は、他の犠牲者の遺族や元の住居に戻れていない被災者の存在に触れ、「(復興から)取り残されていると感じる人は多いと思う」とおもんぱかる。祝賀ムードが広がる中、卓也さんは「まだ新しい橋を渡る気になれない」。忍さんは今も、昨年10月に復旧した国道57号の崩落現場を通ることができない。

 心の支えとなっているのは、当時の県災害対策本部による捜索が一時中断した後、家族と一緒に手掛かりを探してくれたボランティアや、苦しい思いを共有してくれた報道関係者だ。

 自らの結婚や出産といった人生の節目を報告に訪れたり、卓也さんの還暦祝いを一緒に開いたりしてくれた。忍さんは「支援してくれる人がたくさんいたから、この5年を生きられた。私たちが寂しくないように、晃がいろいろな縁をつないでくれたのかな」。晃さんの遺影を見て、ほおを少し緩めた。(東誉晃)

https://this.kiji.is/740885824894976000?c=92619697908483575

阿蘇大橋、揺れ逃がす工夫 構造も強く最善の技術
2021/3/8 11:00 (JST)
©株式会社熊本日日新聞社

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阿蘇大橋の建設で工期短縮のために用いられた超大型移動作業車(熊本復興事務所提供)

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阿蘇大橋の建設で工期短縮のために用いられたオートクライミングシステム工法(熊本復興事務所提供)

 熊本県阿蘇村に7日開通した新阿蘇大橋は、熊本地震で崩落した旧大橋から約600メートル下流の渓谷に架かり、村の中心部方面と立野側の国道57号をほぼ直線でつなぐ。全長525メートルは旧大橋(206メートル)の約2・5倍。地震の教訓を生かして揺れに強く、揺れを逃すための工夫が施されており、国土交通省は「熊本地震級でも壊滅的なダメージは避けられる」と強調する。

 新大橋は、黒川から約100メートルの高さにある長さ345メートルの本体部と、国道57号からの180メートルのアプローチ部の大きく二つに分かれる。

 本体部は、複数の橋脚と上部の橋桁を一体化させた造りで、ドイツ語の「骨組み」に由来して「ラーメン橋」構造と呼ばれる。両岸の2点で支えるアーチ構造に橋桁を載せた旧大橋に比べ、揺れに強いのが特徴だ。

 実際、新大橋のやや下流にある同じラーメン橋の阿蘇長陽大橋(276メートル)は、熊本地震でも本体部が崩れず残った。そのため地震後1年4カ月という早い段階で応急復旧が完了し、阿蘇地域復興の大きな支えとなった。

 新大橋はアプローチ部にも工夫がある。

 直下に活断層があると推定されるため、橋桁を65メートルと115メートルの二つの部分に分けた。活断層直上の65メートルの橋桁は、橋脚との接合部の強度をあえて弱め、強い地震が起きれば橋桁がずれて、揺れの力を逃がす仕組みだ。

 T字形をした橋脚の上部構造も、通常より幅を広げて橋桁が落ちにくくした。仮に橋桁が落ちた場合も、65メートルのアプローチ部だけに被害がとどまるため、新大橋全体では早期の復旧が可能という。

 建設においても、作業用の足場とコンクリートの型枠が一体化した状態で橋脚を造る「オートクライミングシステム」や、「超大型移動作業車」を使って橋桁を伸ばすように造るなど最新の工法を採用。国交省熊本復興事務所の藤川真一・工務第二課長は「こうした工法がなければ、開通は来年の夏前まで1年4カ月ほど伸びた可能性がある」と話す。

 地盤防災学の専門家として新大橋の工事に助言した北園芳人・熊本大名誉教授は「現在考え得る最善の技術を取り入れた。新大橋の開通が阿蘇地域の経済的な復興につながってほしい」と期待する。(太路秀紀)

https://this.kiji.is/740885824894976000?c=92619697908483575

5.18当時の青年射殺を戒厳軍元兵士が遺族に直接謝罪

このニュース、「5.18」についてある程度の関心を持ってきた者として、個人的にかなり衝撃を受けました。これは、誰にとっても簡単なことではないですよ。強制的に実現できることではありません。

40年という歳月の経過と、時代状況と、関係各位のセットアップや説得、そして当事者の受容。いろいろな要素が絡み合って実現したのだと思います。

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この一件はもしかしたら、様々な立場の関係者や公的機関、最終的には国家の選択にも、影響を及ぼすかもしれませんね。

청년 쏴죽인 5.18 계엄군, 유족 앞 첫 공개 사죄
5.18묘지서 만나 41년 만에 회한의 눈물... 유족 "사과해줘 고맙다" 용서
21.03.17 13:19 l 최종 업데이트 21.03.17 14:54 l 소중한
[기사 수정 : 17일 오후 2시 55분]

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▲ 5·18민주화운동 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며, 지난 16일 국립5.18민주묘지에서 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다. 왼쪽부터 고 박병현씨 형 박종수씨, 송선태 위원장, A씨. ⓒ 5.18민주화운동진상규명조사위원회

41년 만의 첫 사례다. 5.18민주화운동 당시 한 청년을 사살했던 계엄군 출신 A씨가 지난 16일 유족을 직접 찾아 사과했다. 계엄군 출신이 유족 앞에서, 특히 자신이 직접 죽인 이의 가족을 만나 공개 사죄한 건 이번이 처음이다.

청년의 형은 A씨의 사죄를 받아들였다. 뿐만 아니라 "사과해줘 고맙다"며 외려 그를 끌어안았다. 두 사람은 부둥켜안은 채 용서와 회한의 눈물을 흘렸다.

'고백과 증언'은 이렇게 첫발을 내딛었다.

유족 "오래 전 다 용서, 명령 내린 놈이 나쁜 놈"

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▲ 5·18민주화운동 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며, 지난 16일 국립5.18민주묘지에서 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다. 왼쪽부터 A씨, 김영훈 유족회장(중앙), 고 박병현씨 형 박종수씨. ⓒ 5.18민주화운동진상규명조사위원회

5.18민주화운동진상규명조사위원회는 17일 보도자료를 통해 "5.18 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다"라며 "그간 진압 작전에 참여했던 계엄군들이 목격한 사건들을 증언한 경우는 많이 있었으나 가해자가 자신이 직접 특정인을 숨지게 했다며 유족에게 사과 의사를 밝힌 경우는 최초"라고 발표했다.

앞서 A씨는 위원회를 통해 자신이 1980년 5월 23일 광주시 남구 노대동 소재 '노대남제' 저수지 인근에서 시민을 죽였다고 고백했다. 위원회는 당시 그곳에서 죽은 피해자의 신상을 A씨에게 제시했고, A씨는 그 사람이 자신이 죽인 이가 맞다고 인정했다.

A씨가 사살한 인물은 '국립5.18민주묘지 2-02'에 잠들어 있는 고 박병현씨다. 1956년생인 박씨(5.18 당시 25세)는 광주의 시계점에서 일하던 중 고향 보성의 농촌 일을 돕기 위해 길을 나섰다가 7공수여단 33대대 8지역대 소속의 A씨에게 총을 맞아 사망했다.

위원회는 A씨가 유족에 사죄하고 싶다는 의사를 밝히자 박씨의 형을 만나 이를 전했다. 박씨의 형은 "우리 가족은 이미 오래 전에 다 용서했다. 그 군인이 무슨 죄가 있겠나. 명령을 수행한 죄밖에 더 있겠나. 명령을 내린 놈이 나쁜 놈"이라며 사죄를 받아들일 의사를 밝혔다.

위원회는 두 사람 만남의 공개 여부를 두고 고민에 빠졌다. A씨의 사죄를 개인의 도덕적 반성을 넘어 공적 영역으로 이끌어 낼 필요가 있었기 때문이다. 위원회의 공개 사죄 제안에 고민을 이어가던 A씨는 결국 이를 받아들이기로 했다.

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▲ 5·18민주화운동 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며, 지난 16일 국립5.18민주묘지에서 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다. 왼쪽부터 A씨, 김영훈 유족회장, 송선태 위원장, 고 박병현씨 두 형제. ⓒ 5.18민주화운동진상규명조사위원회

A씨와 박씨의 두 형제는 16일 국립5.18민주묘지 민주의문 접견실에서 만났다. A씨는 이 자리에서 유족에게 엎드려 절하며 "어떤 말로도 씻을 수 없는 아픔을 드려 죄송하다. 저의 사과가 또 다른 아픔을 줄 것 같아 망설였다"며 눈물을 흘렸다. 이어 "지난 40년 동안 죄책감에 시달렸다"며 "유족을 이제라도 만나 용서를 구할 수 있어 다행이다"라고 말했다.

이에 박씨의 형 박종수(73)씨는 "늦게라도 사과해줘 고맙다. 죽은 동생을 다시 만났다고 생각하겠다"며 "용기 있게 나서줘 참으로 다행이고 고맙다. 과거의 아픔을 다 잊어버리고 떳떳하게 마음 편히 살아달라"고 답했다.

위원회는 "그간 위원회는 조사 활동을 통해 A씨의 고백과 유사한 사례를 다수 확인했다"며 "향후 계엄군과 희생자 간 상호 의사가 있는 경우에는 위원회가 이를 적극 주선해 조사위 설치 목적대로 사과와 용서를 통한 불행한 과거사 치유 및 국민통합에 기여할 예정이다"라고 밝혔다.

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▲ 5·18민주화운동 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며, 지난 16일 국립5.18민주묘지에서 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다. 왼쪽부터 송선태 위원장, A씨, 고 박병현씨 두 형제. ⓒ 5.18민주화운동진상규명조사위원회

http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002727701

5.18 계엄군·유족 만남 이끈 이 사람 "양심고백 이어지길"
[스팟인터뷰] 최용주 5.18진상조사위 1과장 "유족 찾아 공개 사죄, 세계사적으로도 드물어"
21.03.17 15:57 l 최종 업데이트 21.03.17 16:49 l 소중한

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▲ 5·18민주화운동 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며, 지난 16일 국립5.18민주묘지에서 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다. 고 박병현씨의 형 박종수씨(오른쪽)와 박씨를 죽인 A씨가 부둥켜안은 채 오열하고 있다. ⓒ 5.18민주화운동진상규명조사위원회

"익명의 대상을 상대로 사과하는 사례는 그 동안 많았는데, 자신이 죽인 이를 특정해 그 유족을 만나 사죄한 건 세계사적으로도 드문 일이다."

1980년 5.18민주화운동 당시 한 청년을 사살했던 계엄군 A씨가 지난 16일 유족을 직접 찾아 사과했다. 그 동안 일부 계엄군의 목격담은 여럿 있었지만, 계엄군이 직접 자신이 죽인 이의 유족을 만나 공개 사과한 건 41년 만에 처음 있는 일이다(관련기사 : 청년 쏴죽인 5.18 계엄군, 유족 앞 첫 공개 사죄 http://omn.kr/1sgv4).

고백과 증언, 사과와 용서가 이뤄지기까지 5.18민주화운동진상규명조사위원회(위원장 송선태)의 역할이 컸다. 지난해(2020년) 7공수여단의 작전사항을 살피기 위해 고 박병현씨(1956년생)의 사례를 추적하던 위원회는 A씨가 박씨를 죽인 인물임을 알게 됐다.

지난 1월 A씨를 만난 위원회는 그로부터 '사죄하고 싶다'는 의사를 확인했고, 이를 전남 해남에 사는 박씨의 형 박종수(73)씨에게 전했다. 박씨는 고민 끝에 A씨를 만나기로 했다.

위원회는 A씨의 사죄를 개인의 도덕적 반성을 넘어 공적 영역으로 끌어오고자 했다. 그래서 A씨에게 공개 사죄를 요청했다. A씨로선 위축될 수밖에 없는 상황이었으나 위원회 설득 끝에 이를 받아들였다.

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▲ 최용주 5.18민주화운동 진상규명 조사위원회 조사1과장 ⓒ 이희훈

이번 만남을 총괄한 최용주 위원회 1과장은 17일 <오마이뉴스>와의 통화에서 "유족도 '응어리가 풀렸다'고 말하고, A씨도 연신 '고맙다'고 그러더라. 두 사람이 부둥켜안고 펑펑 울었다"라며 "우리 위원회로서도 가장 보람된 순간이라고 생각하고 있다"라고 말했다.

이어 "이번 사례를 통해 계엄군들의 양심고백이 이어졌으면 한다. 결국 사과와 용서가 아픔을 치유하고 사회통합으로 나아가는 가장 바람직한 방법 아니겠나"라며 "앞으로 이러한 사례가 축적되면 자연스레 5.18 당시 광주에서 있었던 야만적 국가폭력의 실상이 구체적으로 드러날 것이다"라고 강조했다.

아래 최 과장과의 인터뷰를 일문일답으로 정리했다.

"유족도 고마워했다... 보람된 순간"

- 어떻게 해서 계엄군을 만나게 됐나.

"2001년 '대통령직속 의문사진상규명조사위원회(의문사위)'에 신고됐었던 박씨의 죽음은 (죽인 사람을 특정할 순 없었지만) 사망 원인이 명확했고 보상 절차가 진행됐었기에 의문사위 역할 상 조사가 개시되지 않은 사건이었다. 우리도 이 사건을 다시 들여다본 건 (박씨가 숨진 곳 인근에서의) 7공수여단 이동경로 및 작전사항을 살피기 위해서였다. 그런데 사안을 훑어보던 중 7공수여단 소속 군인의 양심고백을 발견했고 이것이 박씨의 죽음과 연관이 있겠다고 생각했다. 그래서 A씨를 찾아갔더니 그도 놀라면서 '당시의 행위 때문에 고통을 겪고 있다'고 우리에게 고백했다. 그는 '이제라도 유족을 만나 용서를 빌고 싶으니 위원회가 자리를 마련해줬으면 좋겠다'고 요청했다.

- 그래서 박씨의 유족을 찾아가게 된 것인가.

"그렇다. (당시 25세였던 박씨의) 아버님, 어머님은 돌아가셨고 형제 분들이 계셨다. 전남 해남에 살고 계신 큰형님을 직접 만났다. 나와 조사관이 '당신 동생을 사망하게 한 계엄군의 신원을 알게 됐다. 그가 용서를 구하고자 한다'고 말했더니 그는 한참 생각에 빠졌다. 그러더니 '고통을 내려놔야 할 것 같다'며 사죄를 받아들이기로 했다."

- 계엄군과 유족의 만남을 언론에 공개하는 것을 두고 위원회도 고민이 많았을 것 같다.

"(국가폭력에 의한) 사과와 용서는 개개인 간의 문제로 끝나선 안 된다고 생각했다. 사회적으로 인정받을 수 있어야 한다. 그래야 의미가 있다. A씨의 신원은 공개하지 않는 선에서 그의 사과를 공개하기로 결정했다. 유족도 이를 받아들였다."

- 공개 사과를 제안하자 A씨는 어떤 반응이었나.

"고민을 많이 하더라. 다만 이 과정이 갖는 사회적 의미에 대해 충분히 설명했고 이에 공감했다."

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▲ 5·18민주화운동 당시 계엄군으로 참여했던 공수부대원이 자신의 사격으로 인해 무고한 사망자가 발생했음을 인정하며, 지난 16일 국립5.18민주묘지에서 유족을 직접 만나 사죄와 용서를 구했다. 왼쪽부터 고 박병현씨 형 박종수씨, 송선태 위원장, A씨. ⓒ 5.18민주화운동진상규명조사위원회

- 계엄군이 자신이 직접 죽인 이의 유족을 만나 사죄를 했다는 것 자체로 큰 의미가 있어 보인다.

"5.18 이후 처음 있는 일이며 세계사적으로도 드문 일이다. 기존엔 계엄군의 목격담 등이 전부였는데 A씨는 본인의 행위에 대한 고백을 한 것 아닌가. 또한 익명의 대상을 상대로 사과하는 사례는 그 동안 많았는데, A씨처럼 자신이 죽인 이를 특정해 그 유족을 만나 사죄한 건 매우 드물고 용기가 필요한 일이다. 유족도 '내가 용서하고 싶어도 누굴 용서해야 할지 몰랐는데 이렇게 나서줘 고맙다'고 하더라."

- 어디선가 보고 있을 다른 계엄군 출신들에게도 의미 있는 메시지가 될 것 같다.

"그렇다. 이번 사례를 통해 계엄군들의 양심고백이 이어졌으면 한다. 실제로 그럴 것이라 생각한다. 결국 사과와 용서가 아픔을 치유하고 사회통합으로 나아가는 가장 바람직한 방법 아니겠나. 이미 우리 위원회도 유사한 사례 몇 건을 더 다루고 있다. 앞으로 이러한 사례가 축적되면 자연스레 5.18 당시 광주에서 있었던 야만적 국가폭력의 실상이 구체적으로 드러날 것이다."

- 개인적으로도 감회가 남다를 것 같다.

"유족도 '응어리가 풀렸다'고 말하고, A씨도 연신 '고맙다'고 그러더라. 두 사람이 부둥켜안고 펑펑 울었다. A씨는 오늘 아침에도 전화로 감사의 마음을 전해왔다. 우리 위원회로서도 가장 보람된 순간이라고 생각하고 있다."

- 위원회의 역할이 앞으로도 중요하겠다.

"위원회 설립 목적인 진실규명을 위해선 가슴 아픈 과거사 때문에 찢긴 사회 구성원의 갈등을 해소해야 하는 과제를 풀어내야 한다. 사회 통합의 계기를 마련하겠다는 관점에서 위원회 활동을 이어가겠다."

http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002727776

オーマイニュースに比べると、京郷新聞のこちらの記事は短いですが、1980年当時の状況についてより詳しく伝えています。

5·18 때 계엄군 유족 찾아 참회...직접 용서 구한 첫 공수대원
강현석 기자 2021.03.17 20:43 입력

“겁에 질려 도망가는 민간인을 사살했다”

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1980년 5·18민주화운동 당시 광주에 투입됐다가 고향으로 가던 박병현씨를 사살한 것으로 확인된 공수부대 출신 A씨가 16일 박씨 묘지를 찾아 용서를 구하고 있다. 5·18민주화운동진상규명조사위 제공

묘지 앞에 무릎 꿇고 “사죄”
직접 용서 구한 첫 공수대원
“40년간 죄책감에 시달렸다”

5·18민주화운동 당시 계엄군으로 광주에 투입됐던 공수부대원이 희생자의 유족을 만나 사죄했다. 계엄군이 자신이 직접 사살한 사망자의 유족을 만나 용서를 구한 것은 이번이 처음이다.

5·18민주화운동진상규명조사위원회는 “5·18 당시 계엄군으로 투입된 공수부대원 A씨(66)가 지난 16일 국립5·18민주묘지에서 박병현씨 유가족을 만나 사죄와 용서를 구했다”고 17일 밝혔다.

A씨는 5·18묘지에 안장된 박씨의 묘역을 찾아 무릎을 꿇고 참배했다. 이날 A씨의 참배에는 박씨의 형과 동생 등 유가족 3명이 함께했다. A씨는 5·18 당시 25세였던 박씨에게 총격을 가해 사살한 당사자다.

박씨는 1980년 5월23일 농사일을 돕기 위해 광주에서 고향인 보성으로 가는 길에 사망했다. 당시 광주 외곽을 차단한 계엄군들로 인해 차량이 운행되자 않자 박씨는 걸어서 보성으로 가기 위해 친구와 함께 노대동 ‘노대남제’ 저수지 인근을 지나다 A씨 부대와 맞닥뜨렸다.

7공수 33대대 8지역대 소속이었던 A씨는 정찰을 하고 있었다. 박씨 일행이 도망치자 A씨는 곧바로 M16 소총으로 사격을 가했다. A씨 부대원들은 죽은 박씨를 인근 야산에 묻고 철수했다. 박씨의 시신은 5·18 직후 가족들에 의해 6월2일 발견됐다. 고향에 묻혔던 A씨는 6월11일 진행된 부검에서 머리 총상이 확인됐다. A씨는 5월30일 부대로 복귀한 뒤 전역했다.

5·18 당시 숨진 시민들의 개별 사망경위에 대한 조사를 진행하고 있는 5·18진상규명위는 지난 1월 A씨 부대가 박씨 사망장소에서 작전을 폈던 사실을 확인했다. 조사관들이 찾아가자 A씨는 “내가 비무장한 사람을 사살했다는 것을 알고 있다”며 자신의 잘못을 시인했다고 한다. A씨는 2차례 면담에서 “당시 정찰을 하다 도망가는 민간인이 있었는데 (부대원 중)나만 무의식적으로 총을 쐈고 부대원들이 매장했다”면서 “박씨는 단지 겁에 질려 도망가던 상황이었다”고 진술했다.

A씨가 진술한 지역에서 사망한 시민은 박씨가 유일했다. 자신이 죽인 사람이 박씨라는 사실을 전해 들은 A씨는 상당한 충격을 받은 뒤 유가족을 만나 용서를 빌겠다는 뜻을 밝혔다고 한다. 지난 1월에는 혼자 광주를 찾아 박씨의 묘역을 참배하고 사죄하기도 했다.

박씨의 유족들도 고심 끝에 A씨를 만나기로 했다. 2시간여 동안 박씨의 유가족을 만난 A씨는 “어떤 말로도 씻을 수 없는 아픔을 드렸다. 40년간 죄책감에 시달렸다”고 오열했다. 박씨의 형인 박종수씨(73)는 “늦게라도 고맙다. 죽은 동생을 다시 만났다고 생각하겠다”며 용서했다.

5·18진상규명위는 “5·18 당시 시민들을 사살했다”는 당시 계엄군 3~4명의 증언을 확보하고 사망한 시민이 누구인지를 추가로 추적하고 있다. 5·18진상규명위 관계자는 “A씨처럼 계엄군들이 당당히 증언해 5·18의 진실을 밝혀주기 바란다”고 말했다.

https://m.khan.co.kr/view.html?art_id=202103172043005

京郷新聞と言えばこちらでもこの件が取り上げられています。時事問題を風刺する4コマ漫画とは言え、取り上げるのが早いですね。

またこの件、日本語で記事になっているのは今のところこれだけでしょうか。

www.thenewstance.com

朝鮮日報でも記事になっているので、いずれは日本語版に出るかもしれません。

www.chosun.com

大阪大空襲から76年目にして初めての朝鮮半島出身の犠牲者追悼集会

これ、そうだったんですね。東京のことをどうこう言える状況ではなかったですよ。

朝鮮出身の大阪空襲犠牲者を初追悼 13日に市民団体
武田肇 2021年3月3日 9時30分

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朝鮮半島出身の大阪大空襲犠牲者を追悼する集会について説明する実行委員会のメンバー=2021年3月2日、大阪市中央区大阪府庁、武田肇撮影

 第2次世界大戦中の大阪大空襲で犠牲になった朝鮮半島出身の人たちを追悼する初の集会が、最初の大空襲から76年の13日、大阪市北区天神橋3丁目のPLP会館で開かれる。市民団体が当初は1年前に開く予定だったが、新型コロナウイルスの影響で延期されていた。

 主催の大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会が2日、大阪府庁で記者会見した。会場で感染対策を講じ、ライブ配信もすることで開催できると判断した。集会では、実行委の調査で確認できた犠牲者159人の名簿を祭壇に置き、無宗教方式で祈りを捧げる。

 終戦直後の旧陸海軍関係文書「内地在住朝鮮人戦災者概数」によると、府内の戦災者のうち朝鮮半島出身の人が8・19%を占める。ただ、実行委が調査するまでほとんど詳細は不明だった。東京大空襲をめぐっては毎年、市民団体が朝鮮人犠牲者の追悼会を開いている。

 実行委は、朝鮮半島などの空襲犠牲者を戦時中まで強いられた日本名(通名)ではなく民族名(本名)で記録する取り組みも進めてきた。集会では「創氏改名」(岩波新書)の著作がある水野直樹・京都大名誉教授が「本名で追悼すること」と題して講演する。

 調査には在日コリアンの団体も協力した。呼びかけ人の一人で元高校教員の横山篤夫さんは「76年経ってしまったが、歴史の空白を多くの人の協力で埋めることができるのは意義深い」と語った。

 集会は午後2時半からで参加費1千円。ライブ配信の視聴は前日までにメール(hwongi19@gmail.com)で要申し込み。問い合わせは空野佳弘法律事務所(06・6361・5488)(武田肇

https://www.asahi.com/articles/ASP326QP1P32PTIL00Z.html

朝鮮出身の犠牲者、初の追悼集会 大阪大空襲から76年
武田肇 2021年3月13日 21時07分

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大阪大空襲から76年を迎え、朝鮮半島出身の空襲犠牲者に向けて献花する金禎文さんら遺族=2021年3月13日午後2時45分、大阪市北区、金居達朗撮影

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大阪大空襲から76年を迎え、朝鮮半島出身の空襲犠牲者に向けて献花する金禎文さん=2021年3月13日午後2時45分、大阪市北区、金居達朗撮影

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大阪大空襲から76年を迎え、黙禱(もくとう)する金禎文さん(手前中央)ら追悼集会に集まった人たち=2021年3月13日午後2時46分、大阪市北区、金居達朗撮影

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大阪大空襲から76年を迎え、追悼集会で黙禱(もくとう)する人たち=2021年3月13日午後2時46分、大阪市北区、金居達朗撮影

 第2次世界大戦中の大阪大空襲で犠牲になった朝鮮半島出身の人たちを追悼する初の集会が、最初の大空襲(1945年3月13~14日)から76年の13日、大阪市北区で開かれた。1万5千人とされる大空襲の犠牲者のうち、何人が朝鮮人だったか実態は今も明らかではない。「歴史の空白」を埋めようと日本人の研究者と在日コリアンの有志が連携して取り組んだ。

 大阪空襲75年朝鮮人犠牲者追悼集会実行委員会が主催した。犠牲者の氏名を記した名簿を祭壇に置き、参加者約150人が黙禱(もくとう)をささげた。在日3世の大学生、李葎理(リリュルリ)さん(21)が「再びつらい思いをする人がない世の中に」とする追悼文を朗読した。

 敗戦まで日本が朝鮮半島を統治したことを背景に、1942年の大阪府警察統計書によると、大阪には約41万人の朝鮮人が暮らしていた。ところが、「大阪大空襲の体験を語る会」が集めた体験記約450編には朝鮮人の手記は一本もなく、追悼式も開かれてこなかった。大阪空襲被災者運動資料研究会代表で元高校教員の横山篤夫さん(79)が約2年前、調査と追悼を呼びかけた。

 しかし、立ちはだかったのが名前の壁だった。大阪市中央区の大阪国際平和センター(ピースおおさか)には、空襲で亡くなった9117人の名簿があるが、民族名(本名)で記されていたのは十数人。敗戦まで強いられた創氏改名や、日本社会で差別を避けるため、本名を名乗れない状況もあり、多くが名簿に日本名で記されていた。専門家の分析や文献との照合で、159人を朝鮮半島出身と特定した。うち2人は戦時中の労務動員で大阪に来た人だった。

 13日の集会では、調査に協力した京都大の水野直樹名誉教授(朝鮮近代史)が講演し、「植民地支配の過ちを記憶するためにも、後世に残す空襲死没者名簿は、生まれ持った名前で記されるのが望ましい」と話した。

 集会に参加した徐龍達(ソヨンダル)・桃山学院大名誉教授(87)は「76年前、炎の街を逃げまどい、黒い雨に打たれた恐怖が今も忘れられない。伝えることが戦争をしない力になれば」と話していた。(武田肇

https://www.asahi.com/articles/ASP3F6S6GP3DPTIL00X.html

「済州4.3事件真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」改正案、公布・施行へ

改正案の国会通過は先日のことでしたが、閣議での承認も完了したとのことで、これで3月公布・6月施行の運びとなったようです。

事件の被害者・犠牲者に対する個人レベルの名誉回復への便宜措置と、国家による「慰謝料」支給、そして追加の真相調査実施というのが改正内容の核となっています。内容的に、朝鮮戦争期の良民虐殺事件に対する政府の今後の対応にも影響すると思われます。

blue-black-osaka.hatenablog.com

‘국가 위자료-특별재심' 제주4.3특별법 국무회의 통과
김정호 기자 승인 2021.03.16 10:23

국회 본회의 의결 후 18일만...행안부, 희생자 피해보상 기준 마련 용역 추진

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제주4.3희생자의 명예회복을 위한 ‘제주4.3사건 진상규명 및 희생자 명예회복에 관한 특별법’ 전부 개정안이 국무회의를 통과했다. 국회 본회의 의결 후 18일만이다.

정부는 16일 정부서울청사에서 국무회의를 열어 국가 차원의 위자료와 희생자 특별재심 등의 내용이 담긴 제주4.3특별법 전부개정안을 의결했다.

4.3특별법 전부개정안에는 추가 진상조사와 희생자 특별재심 신설, 위자료 등 특별한 지원방안 강구 등 명예회복과 상처 치유를 위한 내용을 담고 있다.

법률안 제16조에는 ‘국가는 희생자로 결정된 사람에 대해 위자료 등의 특별한 지원을 강구하며, 필요한 기준을 마련한다’고 명시됐다.

행정안전부는 후속조치로 4.3 희생자의 피해보상 기준 마련을 위한 연구용역에 나서게 된다. 추후 용역 결과를 토대로 별도 입법 절차가 이뤄질 전망이다.

특별재심을 통한 형사상 명예회복도 이뤄진다. 법률안에는 4.3사건 당시 군사재판을 통해 형사처벌을 받은 2500여명의 수형인에 대한 특별재심 조항을 신설됐다.

향후 제주4.3사건 진상규명 및 희생자 명예 회복위원회가 유죄판결의 직권 재심 청구를 법무부 장관에게 권고하는 절차가 이뤄진다.

이 경우 제주지방검찰청에서 별도 전담팀을 꾸려 담당 검사가 일괄적으로 재심을 청구할 가능성이 높다. 군사재판(군법회의)이 아닌 일반재판 수형인은 개별 특별재심 절차가 이뤄진다.

여·야는 행안위 심사 등을 거치며 그동안 쟁점이 돼왔던 추가 진상조사와 관련해 4.3위원회에 추가진상소위원회를 구성하기로 하고 여·야 2명씩 추천하는 위원을 추가하기로 했다.

개정안에는 행방불명으로 결정된 희생자와 관련된 법률관계를 정리하기 위한 실종선고 청구의 특례, 희생자와 유족 지원을 위한 4.3트라우마 치유사업 실시 등의 근거도 담겨있다.

법안은 대통령의 재가를 거쳐 공포 후 3개월 후인 6월부터 시행된다.

http://www.jejusori.net/news/articleView.html?idxno=327147

ノーカットニュースの解説記事を、備忘のためにクリップ。

www.nocutnews.co.kr
www.nocutnews.co.kr
www.nocutnews.co.kr

また現状、日本語の解説はこちらがほぼ唯一だと思われます。丁寧な記事なので、これだけ読んでも内容はかなりわかると思います。

news.yahoo.co.jp

この改正法、遺族や関連団体には異論がある部分がないではなかったようですが、それでもこれが意義あるものであるという認識では一致しています。

文在寅政権の任期終わりも見えてきた今、この機会を逃して次の政権が保守になったらどうなるか。皆さんよくご存じですからね…。

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【豊中の風景】服部霊園

京阪神のお墓を気ままに見て回るシリーズ。今回は豊中の服部霊園。服部緑地に隣接した大阪市立の大規模霊園です。

www.kankyoujigyou.or.jp
ja.wikipedia.org
www.reien-osaka.com

大阪市営の墓地の変遷については、こういう先行研究もあります。

repo.kyoto-wu.ac.jp

その論文にも一覧が記載されている大阪市の公設霊園、64か所全部はとても見切れていませんが、規模の大きい北霊園・南霊園・瓜破霊園くらいは見に行ったことがあります。記事にしてるのはこれくらいですけど。

blue-black-osaka.hatenablog.com
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それはさておき、服部霊園。市民の墓地需要に応えるため、大阪市が昭和初期に瓜破とともに造成した大規模公園墓地です。ただ、両墓地ともに、現在の姿は戦後の拡張を経たものです。

正門は、阪急曽根駅に向いた側にあります。北大阪急行の緑地公園駅からアクセスすると反対側から入ることになります。

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正門すぐのところには管理事務所や駐車場・送迎バス乗降場、休憩施設、そして納骨堂があります。

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見渡す限り、と言うほどではありませんが、やはり相当広いです。

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また、服部霊園の竣工は1941(昭和16年)なのですが、明治や江戸期の墓碑も少なからず見られ、ルーツとなる古い墓地がここにあったことを伝えています。

霊園の中は見た目より高低差があり、戦後の墓域拡張は隣接した低湿地を埋めて盛り土したものです。したがって、古い墓地は園内でも比較的高い場所に分布しているように思われます。

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また、正門の反対側(服部緑地側)には、関西電力の「殉職者之碑」と、大阪市の戦災犠牲者慰霊塔とが並び立っています。

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他にも園内をけっこう歩き回りましたが、今回写真を撮った中でめぼしいのはまあ、これくらいですかね。外国人墓地も見たはずなんですけど、ちゃんとした写真がなかったので割愛します。

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「軍事都市」吹田の戦争遺跡紹介

記事にもありますが、鉄道の拠点となる施設があり、その北に丘陵地帯が広がっていたという立地条件が、吹田に軍事施設を呼び込んだのでしょうね。近世・近代と、宅地化や万博などを挟んだ現代との狭間にある歴史です。

北摂のケシ栽培について個人的に知ったのは、江口圭一『日中アヘン戦争』で読んだのが最初でしたかねえ。

日中アヘン戦争 (岩波新書)

日中アヘン戦争 (岩波新書)

「軍事都市」だった吹田 戦跡たどる冊子 市民団体作成
武田肇 2021年3月2日 10時00分

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「吹田の戦争遺跡をめぐる」を手にする塚崎昌之さん=2021年2月9日、大阪市北区武田肇撮影

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敗戦後、旧日本海軍が米軍に渡した山田地下弾薬庫周辺の図面。防衛省防衛研究所の所蔵資料で、現在は国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページでも閲覧できる

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旧海軍山田地下弾薬庫に保管されていた弾薬のリスト。防衛省防衛研究所の所蔵資料で、現在は国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページでも閲覧できる

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1946年3月、大日本製薬(当時)の倉庫にあった国内産アヘン。敗戦まで北摂はケシ栽培の中心地だった=米軍撮影、故福林徹氏提供

 大阪府北部のベッドタウン吹田市はかつて、旧陸海軍の地下施設を多く抱える「軍事都市」だった。昨年の市制80年を機に、市内の戦争遺跡を紹介する冊子を市民団体がつくった。地道な調査で発掘した写真や資料を満載し、異例の増刷となっている。

 冊子「吹田の戦争遺跡をめぐる」はA4判48ページ。戦争の記憶継承をテーマにパネル展や講演会を開いてきた市民団体「世代をこえて考える戦争と平和展実行委員会」が市の助成を受けてつくった。地元在住で、軍事史を専門に関西大と立命館大で非常勤講師を務める塚崎昌之さん(64)が執筆した。

 巻頭では、サッカーJ1ガンバ大阪の本拠「パナソニックスタジアム吹田」あたりの地下にあった旧海軍山田地下弾薬庫を紹介している。

 弾薬庫は太平洋戦争中の1943(昭和18)年に建設が始まった。45(昭和20)年の敗戦までに総延長約1千メートルに及ぶトンネルが掘られ、弾薬を運び込むトロッコのレールも敷かれた。

 米軍の空襲を避けるために地下につくられたとみられる。敗戦の時点では、対潜水艦用の爆雷や特攻用の軍用機に積む爆弾などが格納されていたという。

 現在の北大阪急行桃山台駅近くに海軍の医薬品を収める地下倉庫があったほか、阪急千里線豊津駅付近では陸軍が、戦時中、ガソリンの代替燃料とされたメチルアルコールを収めるトンネルを掘った。戦後の住宅開発で痕跡が消え、詳細がよくわからない地下施設も多いという。

 「地下壕(ごう)の空間には、忘れられた戦争の記憶が詰まっている」。塚崎さんは府立山田高校の社会科教諭だった93年、生徒と山田地下弾薬庫について調べたことをきっかけに、戦跡の調査にのめり込んだ。

 地域のお年寄りや軍関係者への聞き取りだけでなく、何度も防衛省防衛研究所(東京)などに通い、公文書を丹念に調べた。

 日本側が戦後、地下の倉庫や工場の所在をまとめ、米国戦略爆撃調査団に提出していた「近畿地区疎開工場一覧」は塚崎さんが再発見したものだ。

 なぜ吹田に軍事施設が集中したのか。塚崎さんが注目するのは「東洋一の貨物ヤード」と呼ばれ、軍需物資輸送の拠点だった旧国鉄吹田操車場(廃止)の存在だ。国内最大規模の兵器工場、大阪砲兵工廠(こうしょう)(大阪市)との近さや、丘陵地で米軍機の爆撃を避けやすいと考えられたことも理由とみる。

 23(大正12)年に開業した吹田操車場の建設を含め、重労働の難工事を主に担ったのは日本統治下にあった朝鮮半島出身の人たちだった。「今も地域を外国人労働者が下支えしているように、昭和の歴史も日本人だけで築かれたわけではなかった」と塚崎さん。

 吹田市の山田周辺が、戦前までケシ栽培の中心地だったという秘史も紹介している。ケシは鎮痛剤のモルヒネの原料になる一方、麻薬のアヘンやヘロインのもとにもなった。大阪発祥の製薬会社の発展の礎となるとともに、日本のアジア侵略にも深くかかわっていたと塚崎さんは分析する。

 解説は中学生でも読みやすいように心がけ、施設跡をめぐるフィールドワークのモデルコースもつけた。昨年10月に700部発行するとすぐなくなり、増刷した。希望者には送料込み300円で配布する。

 塚崎さんは「戦争遺跡は市史でも記述が少ないが、身の回りから戦争体験者がいなくなるなか、重要性が増している。過去を知ることは、未来を考える手がかりになる」と力を込める。問い合わせは実行委員会。(武田肇

https://www.asahi.com/articles/ASP316TRTP2KPTIL02V.html

【尼崎の風景】梶ヶ島墓園

これも縁、ということで、各地ある中で尼崎にちょっと興味が湧いてきたので、そちらをもう少し歩くことに。

blue-black-osaka.hatenablog.com

ついでで歩くなら、東墓地と同じ杭瀬の共同墓地へ。ということで向かったのは梶ヶ島。

梶ヶ島 かじがしま 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

小田地区の大字。市域南東部、左門殿川の西岸に位置する。平安末から鎌倉時代ころの神崎川の河口の砂州から発達した。地名の由来は鍛冶ヶ島あるいは蟹ヶ島からの転訛、梶取りの島の意など諸説がある。1445年(文安2)「兵庫北関入船納帳」の梶島が史料上の初見と考えられるが、播磨国檐島(現姫路市家島町)の誤記とする説もある。『摂津志』によれば富島荘の荘域であった。

近世には1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」に120石、「天保郷帳」に121.603石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数14軒、人数83人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には10軒、55人とある。氏神住吉神社(近世には住吉大明神社)。

1889年(明治22)以降は小田村、1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1958年の土地区画整理と1985年の住居表示により梶ヶ島および、杭瀬南新町の一部となったほか、一部が杭瀬本町・杭瀬寺町となった。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%A2%B6%E3%83%B6%E5%B3%B6

大物駅と杭瀬駅の間は歩けなくもない距離なので、阪神電車には乗らずに歩いて移動します。杭瀬駅の南側、住宅と工場が隣接して集まっているあたりがいわゆる梶ヶ島です。

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駅から見るとその奥手、川の堤防に沿った土地に梶ヶ島墓園があります。

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一見してわかる通り、面積はある程度あるにしてもお墓の数は限られており、広く一般に開かれた墓地ではありません。江戸期から明治にかけてのお墓もあり、この地域の共同墓地として大きく手を加えられることなく、現在に至ったものと思われます。

だとすれば、ネット上の情報が比較的少ないのも納得です。尼崎霊園ガイドも、こちらについては情報が薄めです。ある程度中身があるのは、こちらくらいですかね。

www.lifedot.jp

民泊施設に遺体一時預かり、というニュース

ちょうど民泊というか、簡易宿所と地域住民との関係云々という話を聞いたところだったんですが…うーん。そら―、そんな話聞いたら住民も黙ってはおれんでしょう。宿泊施設のはずが、遺体の一時預かりって。

ただまあ、オーナーさんとか管理会社さんが地域住民の人々と話し合いをもって相互理解を深められるケースはいいとして、聞く耳を持たないこともけっこうあるらしく。しかも、「外国人だから通じない」ならまだ言葉や文化の問題ですけど、どっかの余剰資金が流入してて、利益が出たら転売する気満々のところなんかは、権利関係が複雑に絡み合ってて話の持っていきどころがない場合も多々あるとか。

とりあえず抗議したりお願いしたりで自粛してもらうしかないんでしょうけど、このコロナ禍で業者やオーナー側も好きでやっているはずはなく、背景に懐事情の厳しさがあるのは間違いないですからねえ。これといった妙案がないのが実情です。

大阪の民泊施設が遺体一時預かり、住民とトラブルに
2021.3.12 06:30

 大阪市住吉区の家屋を民泊に利用している業者が民泊施設で遺体を一時的に預かることを繰り返し、近隣住民とトラブルになっていることが11日、区などへの取材で分かった。区の聞き取りに対し業者側は事実を認めているが、遺体の一時預かりを規制する法律などはなく、市は今後、関連する指導要綱の策定を検討する。

 区や地元関係者によると、民泊施設は外国人男性がオーナーで市の許可を受けて平成30年春に開業。昨年12月ごろから遺体の入ったとみられる棺やストレッチャーが運び込まれるようになった。庭先などに1日程度置かれ、近隣住民が抗議すると今年1月ごろ、施設入り口にカーテンを付け、庭先に屋根を設けた。

 住民からの苦情を受けて事実確認をした区に対し、業者側は1カ月に2、3体を搬入していると説明。「施設は売却しようとしている」とする一方、「売れるまで続けさせてほしい」と話しているという。区は、葬儀業者側が既存の遺体安置所をすぐに用意できないケースなどで、この業者が安価で保管を請け負っている可能性があるとみている。

 市環境局によると、墓地埋葬法では遺体は死後24時間以内の火葬が禁じられており、火葬場の経営や設置には自治体の許可が必要だが、一時的な安置についてはこれらの法規制がない。市の斎場霊園担当者は「法の網がかかっていないのが実情だ。法整備が必要になるのでは」としている。

https://www.sankei.com/affairs/news/210312/afr2103120001-n1.html

追記:プロのコメント。確かに今後、条例での規制が検討されていくことになるかもしれません。ただ、これをやると「事故物件」となってしまうとなれば、後に続く業者はそんなにないんではないでしょうか(物件を売却したいのなら完全に悪手)。